増山弾正少弼正利


       春日局



 さて問題です。この表題の人物は何者でしょうか?
ヒントは江戸時代、徳川三代将軍家光の治世の人です。


直ぐに解答ボタンを押した人は、相当な歴史通か時代小説のマニアですね。
今回、この増山正利を取り上げた理由は、まさに波瀾万丈、当時としては考えられない立身出世をした人物だからです。勇猛な武将、優秀な官吏、否、どちらでもありません。それでは何故、それほどの出世をしたのかお話しします。

 徳川家光の正夫人は、関白鷹司信房の女・鷹司孝子ですが結婚当初より大変不仲でした。公家から嫁いだ二歳年上の妻を家光が何故嫌っていたかは諸説ありますが、家光の男色趣味が原因というのが有力です。乳母のお福(春日局)は、家光が女性に興味を持たないと世継が出来ないので、大変心を痛めていましたので、自分の縁者のおふりと云う女を家光の枕席に勧めました。大恩あるお福の言うことには逆らえないので、家光も励み、おふりが寛永十四年閏三月五日に千代姫を生むと、家光はお役ご免とばかりに、また男色専門となります。

 ところが突然、家光が自ら女に目をつけました。寛永十六年、伊勢の禅寺で尼寺の慶光院の住職が就任の挨拶で江戸に上がり、家光に拝謁しましたが、家光は一目でこの尼さんが気に入り、お福を呼びつけると
「あの住職が気に入った。なんとかせい
と言います。よりによって尼さんが趣味とは、お福も腰を抜かすほど驚きましたが、家光がやっと女に興味を持ったのですから何とかしないといけません。お福はこの尼僧をさんざん口説いて、還俗させることにするのですが、髪を剃った尼さんを枕席に侍らせることは出来ません。髪が生え揃うまで田安屋敷に留めてから家光に供し、お万という俗名に変わりました。家光はお万を寵愛すること一方ではありませんでしたが、子が出来ませんでした。一説にはお万の素性が、公家の六条宰相有純の娘であったため、世継を生むと朝廷の勢力が徳川家に伸びてしまうので、堕胎薬を飲まされていたとも言われています。しかし、お万によって家光は女性に目覚めたのですから、お福の思惑は当たりました。


 ある日、お福が浅草観音を参詣している途中、ふと籠の中から一人の少女を見つけて大変驚きました。その少女の容姿や物腰がお万にそっくりだったからです。お福は家光が気に入るのではないかと思い大奥に召し寄せようと、直ぐに供の者に少女の素性を調べさせました。少女の名はお蘭、その時十九でしたが、調べてみると少々問題があります。それはお蘭が死罪人の娘だったからです。
 お蘭の父親は一色惣兵衛といって下総古河(下野国都賀郡高島村という説有り)の百姓でしたが、過って禁鳥の鶴を撃ってしまいました。鶴を撃てば死刑になる大罪です。惣兵衛は動揺しましたが捨てるのも惜しく、日本橋の問屋に相談すると数寄者はいるもので、思わぬ高値で売れてしまいます。貧しい生活をしていれば、違法と知りながらも大金の誘惑には勝てません。ちょくちょく密猟をして江戸で売っていましたが、遂には露見して死罪となりました。
 惣兵衛の家族は「あがりもの」といって、一生奉公の奴隷になり、古河の領主永井信濃守尚政に預けられました。家族は妻と娘二人、末の男の子一人で、娘の姉の方がお蘭です。永井家で妻は奥女中になり、二人の娘も女中、男の子は茶坊主にされますが、故あって奴隷の身分を解放されると、妻は神田鎌倉河岸の古着屋七沢作左衛門と再婚しました。お蘭と妹は連子となって作左衛門のもとに身を寄せますが、男の子の方の消息は分かりません。大方故郷で百姓でもしていたのではないでしょうか。

 お福もお蘭の身上話を聞いて驚いたでしょうが、それでも大奥へ引き取り、お蘭はお福の部屋子となって諸事指南を受けていました。あるとき大奥で、お蘭を田舎者と見くびる朋輩から、在所の麦搗唄を無理矢理唄わされているところ、ふと来た家光は、その無邪気な様子に心を惹かれ、お蘭はその夜から伽に召し出されました。お蘭は間もなく懐妊すると、寛永十八年(1641年)八月三日に男の子を産みました。それが家光待望の長男で、後の四代将軍家綱です。片田舎の百姓で死罪人の娘が、数奇な運命で将軍世子の生母お楽の方になったわけです。
 そうなると親兄弟も放っておくわけにはいきません。田舎から弟を捜し出し、母方の姓増山を名乗らせ、正保四年(1647年)に新知一万石を与え、家綱の教育係にも就任、従五位下に任官して、増山弾正少弼正利という仰々しい名前になりました。万治二年(1659年)には三河西尾二万石に移封され、常陸下館藩二万石、伊勢長島藩二万石と移り、増山家は幕末まで残っています。
 

 正利のそこに至る詳しい経緯は分かっていませんが、想像するなら、ある日突然田舎の農家に駕籠を持った侍行列が着き、十五、六の男の子に美服を着せると、誘拐するように連れ出し、どこかの大名屋敷で言い含めて諸事教育したのではないでしょうか。
戦国動乱の時代であれば下克上もありますが、太平の世となれば、百姓が大名になるなど、メダカが鯨になるくらい困難なことです。増山正利は自分で望まずに成り上がったのですから、まさしく奇跡的といえます。家綱が将軍になると、正利はその叔父として大変な権勢であったそうです。


鶴渡る (1972年)

鶴渡る (1972年)

天地人

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
しっかり正月休みを取ってしまいましたが、今日からまた再開しますので、よろしくお願いいたします。

 NHK大河ドラマ天地人」の第一回を観ました。高視聴率だったそうですが、なかなか内容も良かったですね。上杉輝虎(謙信)役の阿部寛も、最初は心配だったのですが、執着心が強くマニアックそうな性格が、私の持っている謙信のイメージに似ていたので好印象でした。あとはまだ本格的に出ていない、妻夫木くん次第でしょうか。私の家には録画機能のある機器が無いので、一年間欠かさずに観るのは大変ですが、今回は頑張ってみようかと思います。


「『利』を求める戦国時代において、『愛』を信じた兼続の生き様は、弱者を切り捨て、利益追求に邁進する現代人に鮮烈な印象を与えます。大河ドラマは、失われつつある「日本人の義と愛」を描き出します!」


 ナレーションでも流れていた、番組の宣伝文句がこれです。褒めた途端に「突っ込み」を入れるようですが、この文句はどうでしょうか。私はちょっと違和感があるのですが。
多分、この文句に出てくる「愛」は、直江兼継が愛用していた兜の「愛」の前立からイメージしたのでしょう。この「愛」の前立の由来は二つの説が有り、一つは兼継の仁愛の精神を表しているという説、一つは愛宕権化(或いは愛染明王)の頭文字「愛」を取ったものである説です。どちらが正しいかは、ウエッブ上でも論議が盛んで、結論が出ていないようですが、二つに一つなら、私は後者の説に一票入れたいですね。
 そう思う理由は、いくら何でも生死を賭けた戦場で被る兜に、現代人が考えるような意味での「愛」という字を、戦国武将が入れるとは考えにくいからです。そもそもこの時代に、宣伝文句が意味するような、「愛」という概念が有ったかどうかさえ疑問です(特別な根拠はないのですが...)。何かで読んだのですが、謙信が毘沙門天の「毘」の字を旗印にしているので、兼継は愛宕権現の「愛」の字を前立に用いたと書いてありました。この説の出典も、信憑性が有るのか無いのか分かりませんが、愛民や仁愛、親子愛の「愛」が由来と言われるよりは信じたくなります。

 火坂雅志氏の本を読んでいないので「『愛』を信じた兼続の生き様」が、原作にもあるテーマなのかは知りませんが、これも何の史料がもとになっているのか知りたいですね。兼継が、民を愛して治世を行ったと言っている人もいますが、同じ様な善政をした戦国武将は他にも沢山いますから、兼継だけが特別とは思いません。
 私が直江兼継の事を知らなすぎるのかもしれませんが、この話に限らず、余りにも時代考証に飛躍があると、鼻白む思いがするのですが、皆さんは如何でしょうか。


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加藤肥後守清正


 「加藤肥後守清正」  本妙寺所蔵品


 「賤ヶ岳七本槍」を取り上げてきましたが、残った最後の一人、そして、区切れ良く本年最後の書き込みとなった、加藤肥後守清正をご紹介します。
 

 七本槍の中で最も有名な武将は、加藤清正だと思います。逸話も沢山残っているので、何を紹介しようかと迷ったのですが、その中で、芝居や講談のネタにもなった「地震加藤」の話を選びました。
 慶長元年(1596年)閏七月十二日、畿内で未曾有の大地震が起こりました。どのくらいの地震かと言うと、後年の研究で、阪神淡路大震災を上回るマグニチュード8に近い地震だったそうです。竣工したばかりの伏見城は崩れ去り、天守の五階に居た豊臣秀吉は無事脱出しましたが、「増補家忠日記」に因ると「上臈女房七三人、仲居下女五百余人横死す」と書いてあるような大被害を受けました。秀吉は庭に仮屋を造らせ、淀殿と嫡男お拾を抱いて非難していましたが、まさにそのとき、梃子を持たせた屈強な手勢三百人を引き連れた武将が現れます。その、いの一番で駆けつけた武将が、謹慎中だった加藤清正だったのです。
 清正は、文禄の役の命令違反で、秀吉の勘気を蒙り、釈明の目通りも許されず、伏見の屋敷に蟄居していました。しかし地震が起こると、秀吉の身を案じ、矢も盾もたまらず伏見城に駆けつけます。これは、本能寺の変も記憶に新しい時期ですから、ひとつ間違えると、謀叛を起こしたと誤解されても言い逃れ出来ない振る舞いですが、清正はそんなこともお構いなしに、秀吉に対する純粋な忠義心で行動しました。
 秀吉は混乱の中での暗殺を恐れ、女物の着物を着ておろおろとしていましたが、清正が前に来て平伏すると
「虎か、よう来た、よう来た。一番早かったぞ。流石は子供の頃から手塩に掛けて育てただけはある」
と言って、いつもの調子に戻り、上機嫌で褒めました。
そのとき、ふと秀吉は篝火に照らされた清正の顔を覗き込み
「そなた、暫く会わぬうちにやつれたのう」
と一転、優しく声を掛けました。
それを聞いた清正は堪えきれず、堰を切ったように号泣しました。叱られてしょげている子供が、母の優しい言葉で泣き出すのと似ています。幼い頃から、母一人の手で育てられた清正にとって、秀吉は父親にも等しい、いやそれ以上の存在だったからです。


そして同時に、秀吉へ讒言して自分を陥れた、石田三成小西行長への憎しみが増幅されたことも、間違いないでしょう。


 加藤清正の幼名は虎之助。三歳で父加藤清忠を病で亡くし、母伊都に女手一つで育てられました。伊都は秀吉の母奈加と従兄弟、或いは叔母姪の間柄だったとの二説がありますが、年齢差を考えると後者の説が自然です。つまり清正と秀吉の関係は、また従兄弟になります。
 元亀元年(1570年)伊都は九歳の虎之助を連れて尾張を訪れ、秀吉母子に息子の将来を託しました。血族を大変大事にする秀吉ですから、二つ返事で虎之助を引き取り、秀吉の妻寧々は我が子のようにして育てました。この頃の秀吉は、三千の兵を率いて朝倉義景討伐の真っ最中ですから、虎之助の養育は寧々が一身に行ったと思われます。
 清正は宝蔵院胤栄に槍術を習い、秀吉の家中でもその腕前は有名になりました。また母伊都は、少年の頃から可愛がっていた、森本義太夫、飯田角兵衛という少年二人を連れてきて、虎之助の配下に据えました。これが後に庄林隼人を加えて、加藤家の三傑と呼ばれる忠臣に育っていきます。
 
 天正九年(1581年)、清正は、鳥取城攻めで初めての武功を上げると、翌年の山崎の合戦、翌々年の賤ヶ岳の戦いと、自慢の槍を縦横に振るい、次々活躍します。賤ヶ岳の戦い七本槍に名を連ね、三千石(のちに追加され五千石)を加増され、従五位下主計頭に任官。天正十四年、秀吉の九州征伐の後に、肥後の領主佐々成政一揆の鎮圧に失敗し、その責任を負って切腹になると、清正は肥後半国十九万五千石(二十五万石の説もある)を与えられました。
 肥後の残り半国は小西行長に与えらましたが、入部して間もなく、小西領の天草で一揆が起こります。行長は三千の兵を差し向け戦いますが、一揆勢は強く、思わぬ苦戦を強いられ、行長は清正に助勢を頼みました。元々仲の良くない二人でしたが、清正はそれほど料簡の狭い男ではありません。ましてや秀吉から「力を合わせて肥後を治めろ」との命令もありましたので、清正は腹心に千五百の兵を預け救援に送り、一揆を平定しました。秀吉は清正を大坂城に呼びよせ、言葉を尽くして激賞し、自らの腰に差していた左文字脇差を、褒美として与えています。
 秀吉が、二人を肥後の領主に就けたのは、近く実行を計画していた朝鮮征伐の先鋒とする為でしたが、激しく憎しみ合う間柄になろうとは、夢にも思っていなかったことでしょう。
 九州征伐小田原征伐が終わり、人臣を極め、関白太政大臣となった秀吉には、もう以前のような頭の冴えはありませんでした。「人たらし」と言われ、相手の心を読む達人だった秀吉が、後に豊臣家滅亡に繋がる火種を作ってしまうとは、急激に老衰したとしか思えてなりません。


 加藤清正の名が日本のみならず、朝鮮まで知れ渡ったのは、「文禄慶長の役」での働きが所以です。
 清正は、身の丈六尺三寸(約百九十一センチ)と伝わる巨体の上に、銀のたたきの長烏帽子の兜を被り、次々と敵を撃破して進軍しました。朝鮮兵は清正の、この怪物のような巨大な容姿を見て、「鬼上官」とあだ名して、恐れていたと云われています。
釜山港に上陸すると、向かうところ敵なしで漢城を攻略、更に北進して、臨津江の戦いで朝鮮軍を破ると、海汀倉の戦いでも勝利して咸鏡道を平定、朝鮮の二王子(臨海君・順和君)を捕虜にする抜群の手柄を上げました。清正は、部下の略奪や焼き討ちを厳しく禁じ、捕虜にした王子達も鄭重に扱ったと伝わっていますが、朝鮮側の記録では、大悪党の代名詞になっているのは大変残念です。
 水軍の戦いは、日本側が不利でしたが、陸地戦ではもう明国の国境近くまで進軍する勢いとなっていました。しかし、諸隊の連携はあまり良くありません。小西行長とは相変わらずの不仲で、抜け駆けの先鋒争いが絶えず、行長を擁護する石田三成ら奉行達と、清正を味方する黒田長政武断派の亀裂は深くなる一方です。朝鮮との戦争を早く終結させたい、石田三成小西行長でしたので、策を労して和議に持ち込みます。このときに、前述の「加藤地震」の事件も起きているのですが、原因は三成らの讒言が原因で、清正との不和は決定的なものになりました。

 和議は直ぐに決裂して、慶長二年(1597年)二月、再び戦さが始まりました。清正と小西行長の二人は別路の先鋒となり、快進撃を続けて全羅道の道都全州を占領。駐屯していた西生浦倭城の東方に、清正自身が縄張りをした蔚山倭城を築城します。完成間近の同年十二月、明の大軍が押し寄せかて、有名な蔚山城の戦いが始まると、清正は待機していた西浦生倭城から、五百の兵を連れて援軍に駆けつけ、籠城しました。明軍約五万八千に対して、籠城軍は四千足らずの寡兵でしたが、よく善戦して持ち堪え、黒田長政小早川秀秋らの援軍も到着し、明軍を撃退しました。慶長三年九月、第二次蔚山城の戦いも起こり、清正は再度籠城戦を行いますが、同年八月十八日、豊臣秀吉が死去すると撤退命令が出され、清正も帰国することになりました。


 豊臣秀吉亡き後のことは、一連の「賤ヶ岳七本槍」で書いてきましたので省略しますが、加藤清正の活躍も、秀吉の死の後は、あまり輝いていません。
関ヶ原の戦いのときは、九州の西軍勢力を次々撃破して、戦後の論功行賞で肥後全土、五十二万石の大封を与えられました。慶長十年(1605年)に従五位上侍従肥後守に任官。慶長十六年(1611年)3月の徳川家康豊臣秀頼の歴史的な会見の実現に、福島正則らと尽力します。
無事に会見を終えた清正は
「清正もお暇を給りて 肌に隠しはさめる腰刀を抜出し一見して 則鞘に納め是を押戴て落涙数行の間に申けるは嗚呼、清正冥慮に叶ひ 古秀吉公の厚恩今日にて奉報と云り」
と呟き、落涙したと「難波戦記」に記録がありました。

 伏見城の会見の後、肥後に帰る船中で発病した清正は、同年六月二十四日、愛着の深い熊本城で没しました。享年五十。
清正の死は、あまりにタイミングが良かったので、家康の毒殺説も流れましたが、賛否両論がありどちらとも言えません。ただあと十年、いや五年でも長く生きていたら、豊臣家の運命も違っていたでしょう。


 歴史を見て思うのは、「偶然」と「必然」が間断なく発生していることです。しかし、一つの事象が、果たしてどちらだったのかを判断するのは、長年研究しても、確定することは難しいものです。清正の死も、偶然か必然かは解りませんが、豊臣家の滅亡に大きい影響があったことは間違いない、と断言していいのではないでしょうか。

加藤左馬助嘉明


「加藤左馬助嘉明」 滋賀県藤栄神社所蔵品


 慶長五年(1600年)九月十五日正午頃、関ヶ原の戦いで東軍勝利が確定すると、西軍は雪崩をうって敗走しました。逃げる西軍を追って最後の手柄を上げようと、東軍諸隊の陣形は大きく乱れますが、加藤嘉明の兵だけは、一糸乱れず統制を保っていました。このとき嘉明は、敗走する敵兵が最後の反抗で大将を狙うことを用心して、地味な甲冑に着替えていましたが、これを聞いた徳川家康は、
「何事につけ、左馬助の巧者なることよ」
と感嘆したそうです。


 加藤左馬助嘉明は沈勇寡黙な武将です。
 あるとき、嘉明の小姓達が、焼けた火箸を火鉢に差して、知らずに触れた者が驚く様を面白がっていました。そこにやって来た嘉明は、いきなり火箸を握ると、掌から煙がでるほど焼けているにも構わず、平然と灰を掻きならし、一文字を書いて火箸を灰に差し込むと、何食わぬ顔で去っていきました。これを見ていた小姓達は、慄然として震え上がったそうです。
 またあるとき、嘉明が愛蔵する「虫喰南蛮」という十枚一組の茶碗一枚を、小姓の一人が過って割ってしまいました。小姓はお手討ちを覚悟して、嘉明に報告すると
「よくぞ正直に申した。過って割れてしまった物は如何ともし難い。茶碗が一つでも欠けていれば、これからのち、誰が割ったか忘れないであろう」
と言うと、残りの九枚も、砕いて捨てさせました。
嘉明は無口で勇猛な武将ですが、家来達は忠実に仕えています。自分の愛する銘記の茶碗とはいえ、大事な家来と引き換えにするようなことはしませんでした。


 嘉明の父は加藤三之丞教明といって、徳川家康の家臣でした。永禄六年(1563年)に三河一向一揆が起こると、教明は主君家康に背いて一揆側につき、出奔して近江国まで流れてきました。嘉明はちょうどこの年に生まれていますが、当時孫六と呼ばれていた嘉明が、十二歳頃まで、父と共に馬喰をしていたといいますので、貧しい生活ぶりが想像できます。十五歳のとき、尾張国羽柴秀吉の家臣加藤景泰に見出され、秀吉の養子秀勝(織田信長の四男)の小姓になります。
 天正五年(1577年)、秀吉の播磨攻めのときに孫六(嘉明)は、秀勝の小姓の仕事を放り出し、秀吉の陣に参じました。秀吉の妻寧々は怒って、孫六を帰すように秀吉に手紙を書きますが、秀吉は勇猛さを買って手元に置き、録三百石を与えています。翌年の三木城攻めのとき、初めて首二級を獲る武功を上げて、三百石加増され、都合五百石の知行取りとなります。
 賤ヶ岳の戦いのとき、孫六は二十一歳になっており、自慢の槍を振るって活躍し七本槍に加えられました。秀吉からは感状を与えられ、知行三千石を加増されて侍大将になっています。
 天正十三年、秀吉の弟秀長を総大将として四国征伐が行われ、孫六は舟を操り、土佐に攻め込む武功をあげますが、これが彼の水軍との因縁の始まりとなります。この頃、孫六は嘉明と改名し、従五位下左馬助に叙任されています。
 九州征伐や小田原攻めにも水軍の将として参戦して、文禄の役でも水軍を率い、李舜臣率いる朝鮮水軍と戦い、水軍の本拠地伊予松前六万石を与えられました。慶長の役では、元均の朝鮮水軍を撃破し、蔚山城攻防戦でも活躍し、その武功で伊予を含め四郡十万石に加増されます。
 

 そして、関ヶ原の戦いでは東軍を味方し、先鋒となって戦った功で石高は一挙に倍増して、伊予松山二十万石に転封となりました。三十七年前には、家康に背いて三河を追われ、馬喰までしていた嘉明が、その家康から大封を与えられたのですから、感慨無量だったに違いありません。
 嘉明は、藤堂高虎加藤清正と同様に、築城の名人です。皆に共通しているのは、朝鮮の役に参加していることで、当時日本より勝っていた築城技術を、朝鮮から学んできたものと思われます。嘉明は、城郭の縄張り、武家屋敷の地割りなど、ほぼ全てを自分自身で行い、異常なまでの情熱を松山城に注ぎ、改修なども含めると、二十四年の歳月を掛けて築きました。
 しかし完成目前の寛永四年(1627年)、嘉明は、会津藩主蒲生忠郷死後のお家騒動で、蒲生氏が没落した後を受けて、会津四十八万石に転封を命ぜられます。伊予松山は二十万石ですから、倍以上の加増です。大喜びで承知するだろうと思っていたところ、何故か嘉明は、松山城に留まらせて欲しいと幕府に願い出ました。理由は老齢なので、温暖な四国松山に留まりたいと言ったそうですが、真実は松山城への愛着が深かったからです。しかし願いは許さず、六十五歳の老齢の身体を、寒冷の地の会津に移しました。

 嘉明は赴任の途中、藤堂高虎を訪ねました。高虎と嘉明は、慶長の役のとき、先陣の手柄争いで、今にも斬り合いになるほどの喧嘩をし、以後口も聞かないほど不仲でした。しかし、二代将軍徳川秀忠会津を治める適任者を尋ねたところ、高虎は迷わず嘉明を推薦しました。秀忠は二人の不仲を知っていたので、訝しんで高虎に理由を聞くと
「それは私事でございます。私事のために公事を計ってはなりませぬ。奥羽を治めるのは、加藤侍従(嘉明)殿のごとき剛直な人物こそ適任と存じます」
と答えました。嘉明はこの話を聞いて、高虎へ推薦の礼を言うとともに、永年の不遜を謝罪しました。加藤家は録高では藤堂家を上回りましたが、以後は何につけ、藤堂家の下位になるように心掛けていたといわれています。

 寛永八年(1631年)九月十二日、加藤嘉明は江戸で死去しました。享年六十九。

片桐東市正且元


「片桐東市正且元」 大徳寺玉林院所蔵品


 ある意味では「賤ヶ岳七本槍」の中で、最も不運だったのが、片桐且元かもしれません。
私は且元のことを、豊臣秀吉の誠実な忠臣であったと思っていますが、図らずも且元本人の意に反して、豊臣家滅亡を早める為の、手先に仕立てられてしまいました。これは全て、徳川家康とその諜臣達の計略に、且元がまんまと掛かってしまったからです。秀吉亡き後、家康の行動は、徳川が天下人と成るための策謀に終始し、無駄な動きが一切ありません。豊臣家に対する罠は周到に仕掛けられ、もがけばもがくほど、絡みついて離れなくなるような、陰湿な計略もありました。且元は最後まで、徳川家と豊臣家が、友好な関係で続くように、両者の間で働いていました。しかし且元が、決定的な家康の罠に気付いたのは、有名な「方広寺鐘銘事件」だったのではないでしょうか。


 片桐且元の父孫右衛門直貞は、北近江の大名浅井長政の家臣でしたが、浅井家が滅亡すると、且元は十六歳で秀吉に拾われ、小姓として仕えることになります。賤ヶ岳の戦いで且元は、柴田勝家軍の猛将・拝郷五左衛門家嘉(久盈)を討ち取ったとの記録もありますが、拝郷を討ち取ったのは福島正則だという説も有り、どちらが真実なのかは不明です。兎に角、相応の手柄はあげたのでしょう、七本槍の一人に加わりました。その後も秀吉に付き従い、歴戦をしますが、両加藤や福島らと違い、実務家、文官としての働きが多かったようです。且元は近江の出身ですから、尾張組の加藤清正福島正則武断派よりは、石田三成ら文官派と近い間柄だったと思います。
 文禄四年(1595年)、且元は摂津茨木一万二千石を拝領し、従五位下東市正に任ぜられ、秀吉の嫡男秀頼の傅役を仰せつかりました。当初は、秀吉の叔父小出秀政と共に傅役を勤めていましたが、秀政の死後は、且元の双肩に責任が大きくのし掛かります。且元の所領は、加藤清正の二十五万石、福島正則の十一万石に遠く及びませんが、秀吉最愛の息子秀頼の傅役を勤め、秀吉の傍近く大阪城に居ることを、忠臣として誇りに思っていたことでしょう。

 関ヶ原の戦いの時に且元は、大阪城の秀頼の許に居り、戦闘には参加しませんでしたが、その行動は微妙です。弟の片桐貞隆を大津城攻めに派遣して、西軍側の手伝いをさせましたが、一方で嫡男の孝利を徳川家康に人質として送り、秀頼に敵意が無いことを家康に伝えています。私は思うのですが、石田三成の仕掛けた一世一代の大博打に、豊臣家の命運や秀頼の命を託することが、且元には出来なかったのでしょう。且元は既に、徳川家康が天下の権を握るだろうと分かっていたはずです。忠臣として、たとえ豊臣家が一大名になっても、生き残る術を模索していたのだろうと思います。
 役後に且元は、大坂開城の際に城門を警護したという、大した功でもないのに、一万八千石を加増され、大和龍田三万石の大名になりました。そして家康は、秀頼の母淀殿との対面の席で、且元を豊臣家の家老に推します。単純な且元は、家康に信頼されることで、豊臣家存続の力になろうと考えたのでしょうが、このことが原因で淀殿や他の者から
「やはり東市正は、関東の回し者であったか」
と疑いの目で見られるようになったのですから、皮肉なことです。家康は意識的に、且元を自分と豊臣家のパイプ役の様な存在にしますが、これが家康の深慮遠謀な策略であることに気づいた者は、且元も含め、まだ誰もいませんでした。


 慶長十九年(1614年)、「方広寺鐘銘事件」が起こります。家康が方広寺梵鐘の銘文を、家康を呪う言葉であると難癖をつけ、豊臣方に釈明も求めた事件です。有名ですから詳細は省略しましが、立派に成人した豊臣秀頼を疎んじて、徳川政権を末代まで安泰にしようとした家康の策略です。且元は駿府に赴き、家康に謝罪のため、謁見を乞いますが許されず、数日してから、家康の諜臣本多正純の屋敷に呼び出されました。正純は、淀殿が人質となり関東へ下るか、秀頼が大阪城を出て他国に移るか、秀頼自ら関東に下り和を乞うかと、厳しい三つの条件を突きつけます。全て、豊臣方が受け入れられない条件であることは読筋で、これを切っ掛けにして、豊臣家を武力で叩きつぶそうとしているのです。
且元は苦悩しますが、家康の罠はさらに周到です。且元を完全に信用していない淀殿は、別に大野治長の母・大蔵卿局と正栄尼を弁明のため駿府に送りますが、一転して家康は快く迎え、鐘銘事件などおくびにも出さず終始上機嫌でした。両者の違った報告を聞いた淀殿は、且元への疑惑を一層深め、城内には裏切り者の且元を殺そうと計画する者も出ました。且元は病と称して屋敷に籠もり、淀殿の再三の呼び出しにも応じませんでしたが、城内の評定で強行派の主張する関東との開戦が決まり、且元は裏切りの罪で切腹が申しつけられる、との情報を知ると、且元は大阪城を退去する事を決心しました。本拠地の茨木城に入った且元は
「お袋様(淀殿)は一度戦火を浴びぬと、目が覚めぬお方じゃ。大阪城は太閤殿下の築かれた城、少々のことでは落ちぬ。やがて講和のときがこよう」
と嘆息して語りました。
 
 慶長十九年(1614年)十月二日、東西はいよいよ手切れとなり、大阪冬の陣が開戦します。且元は家康の招きで帷幕に参じましたが、戦う為ではなく、あくまで講和の機会を探る目的でした。後世では、且元の指示で大砲を撃ち込んだと言われていますが、当時の大砲はそれ程命中率が高くないので、淀殿の居間に命中し、それが結局講和の要因になったのは偶然だと思います。斯くして大阪冬の陣終結し、且元は家康の勧めで駿府に屋敷を持ち、間もなく病床に臥すことになりました。家康は講和の条件で、大阪城の総濠を埋めると、態度を豹変させ、再度攻撃を命じます。大阪夏の陣の開戦ですが、且元を用心した家康は、駿府の屋敷から動くことを許しませんでした。

 慶長二十年五月八日、大阪城が落城し、燃え盛る炎の中で、秀頼、淀殿が自刃して果てた、という報を聞いた且元の心境は、いかばかりだったでしょう。且元は大阪夏の陣終結後、僅か二十日足らずで病死したと記録されています。しかし一説には、秀頼を死なせた責任を感じて、家康に裏切られたと口走っては、何度も悶絶し、同月二十八日、衣服を整え、香を焚き、西に向かって

「臣、使命を奉じて、無状功なし」

と叫び、切腹したとも伝わっています。享年六十二。


 且元の切腹説は、公式の記録に残ってはいないのですが、既に徳川の世となっていますので、このような「遺恨腹」が記録されないのは常識です。遺領は子の孝利(元包)が継ぎましたが、寛永十五年(1638年)三十八歳で死去、後嗣がなかったのですが、特命で弟の為元が大和龍田一万石を与えられました。その後、跡継ぎが何度も若くして夭折するのですが、その都度幕府は、特命で片桐家を継がせています。
 江戸時代初期、豊臣恩顧の大名は、幕府によってこれみよがしに取り潰されますが、何故か片桐家だけは特別で、存続させようと努力しているように見受けられます。
本当の理由を知る術はありませんが、片桐且元に対して幕府も、流石に後ろめたい気持ちがあったのではないでしょうか。

糟屋助右衛門武則


  加古川城跡 「称名寺



 「賤ヶ岳七本槍」は関ヶ原の戦いで、両加藤、福島、平野、脇坂の五人が東軍に参加、どちらかと言えば家康よりの、片桐且元豊臣秀頼の傳役で大阪城を動かず、唯一人、旗幟を顕して西軍に属したのが糟屋助右衛門武則です。西軍が敗れたので、糟屋家は改易になるのですが、糟屋武則の経歴や事跡など、詳しい事はまったく分かりません。関ヶ原の戦いに参加したのが、本人なのか息子なのかもはっきりしないのです。
 とまれ、そうなると七本槍の本人で、西軍を味方した者は一人も居なかった事になります。


 糟屋家の遠祖は、藤原北家藤原冬嗣の流れですが、途中から二系統の説があり、どちらが本当かよく解りません。一つは「糟屋系図」に因るもので、祖先が相模在国のときに糟屋荘で生まれ、そのまま武士になったという説。もう一つは「寛政重修諸家譜」に因るもので、武蔵七党のひとつ横山党が相模国大住郡糟屋庄に住して、糟屋次郎を称したとあります。播磨の糟屋氏は、加須屋と書いてある物もあり、源頼朝から播磨国印東郡南条郷を与えられ、加古川城を拠点とし、室町期には播磨の守護代となり赤松氏や別所氏などに仕えた名族であったとの記録もあります。いずれにせよ、武則の糟屋家は、播州に根付いていた豪族であったようです。

 天正六年(1578年)信長の毛利攻めの総大将、羽柴秀吉播州で軍議を開き、その場所が加古川城であり、城主が糟屋内膳正武則でした。この時既に武則は城主だったのですが、生年(これも曖昧ですが)から考えると、十五、六歳の若殿様だったようです。この会議には、三木城城主別所長治の父吉親が城主代理で出ていましたが、毛利氏寄りの吉親は、毛利攻めの先鋒を命ぜられると、激怒し、席を蹴って退去してしまいました。別所長治は丹波八上城主の波多野秀治と縁戚関係にあり、既に信長方の明智光秀と抗戦状態だったので、反信長の態度を取るのは自然の流れだったのでしょう。
 武則の兄朝正は別所方に付き三木城に入りましたが、武則は秀吉に加古川城を提供して、秀吉側に味方しました。朝正の方が、別所氏に近い立場だったのですが、一族が敵味方に分かれて命脈を保つことは、真田昌幸の例もあるように、戦国時代の生き残りの方法だったのです。天正八年一月、秀吉の兵糧攻めで三木城が陥落し別所一族が自刃すると、武則は秀吉と行動を共にしますが、城持ちの土豪の身でしたから、家来ではなく、与力のような立場ではないかと推察しています。

 天正十一年、賤ヶ岳の戦いで武則は、佐久間盛政軍の猛将と宿屋七左衛門と、その弟治郎助を討ち取った武功で、賤ヶ岳七本槍に加わりました。武則の活躍の様子は、「絵本太閤記」に詳しく記載されていますが、特別面白くは無かったので割愛します。戦いの二ヶ月後に、秀吉は武則に次の様な感状を出しています。


播州賀古郡二千石、河州河内郡千石、都合三千石事、目録別紙相副令扶助(中略)
八月朔日 秀吉 (花押)
須屋助右衛門(真雄)殿」


郷里の賀古郡と合わせて、三千石を拝領し、このときから秀吉の正式な家臣になったようです。名の加須屋真雄は別名で、他にも数正、宗重、真安、宗孝と複数あり、年代によっても違うので複雑です。一体、武則本人なのか、その子なのかさえ、明確でないのですから、これを書いていても本当に困ります。
 これから後の武則は、豊臣政権で重要な役割を担い、小牧長久手の役、小田原征伐、文禄慶長の役など参戦し、方広寺大仏殿の工事奉行や、伏見城の工事も行っています。文禄三年(1594年)に武則は、従五位下内膳正(昔の官位に戻っただけ?)の官位を授けられ、一万三千石を所領する大名となりました。


そして慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦い糟屋武則が、西軍に属した事は前に書きましたが、合戦の陣割りを見ても、武則の名前が見つかりません。播州を居城にしていので、領地が近い、備前岡山の宇喜多秀家隊と一緒だったかもしれませんし、石田三成の本隊に属していたかもしれません。武則は一万三千石の大名ですから、兵の動員数は多くても四、五百程度ではないかと思います。西軍が敗北したので、戦さの後に糟屋家は改易となりました。「大名廃絶録」の記録では

「一万二千石、播州加古川、糟屋内膳正宗孝、三十四、慶長七年召しだされ後断絶す」

とあります。三十四歳という年齢からすると、記述にある宗孝は、武則の息子の可能性がありますが、それでは武則本人が隠居していたのか、既に死んでいるのかは定かでありません。改易となった糟屋家は、武則の弟相喜が相続し、相喜の子政忠が徳川家康に召し出され旗本になりました。前述したように糟屋家の系譜は複雑なので、関ヶ原で敵方だった武則の糟屋家ではなく、別系統を継いだ形になっていたのではないかと、私は考えています。


 今回は時間を掛けて調べていましたが、結局この程度のことしか書けませんでした。余り人気がなく、本のネタにもなっていない糟屋武則ですから、創作の入り込む余地がありそうなので、いずれ主役にして、小説でも書いてみようかと思っています。

 武則の墓所は二ヶ所あり、兵庫県加古川市称名寺加古川城跡)と、東京都中野区の萬昌院功運寺です。

脇坂中務少輔安治


  「赤井悪右衛門討死の図」絵本太功記



「貂(てん)の尾を 輪違いに振る 関ヶ原

 江戸時代初頭、こんな川柳が流行りました。「貂」の皮は旗指物、「輪違い」は家紋、ともに脇坂安治の物ですが、関ヶ原の戦い小早川秀秋の裏切りに呼応して、さっきまで味方だった、大谷刑部隊を攻撃したことを皮肉って作られたのです。逆向きに振った「貂」の皮の采配を尻尾に見立て、家紋の「輪違い」に引っかけるところなどは、なかなか秀逸な出来と思います。脇坂家の貂の皮は、よほど有名なのでしょうか、徳川十一代将軍家斉の頃、安治の子孫脇坂安薫は、寺社奉行として辣腕を奮い、「谷中延命院一件」などを裁定しましたが、そのときにもこんな川柳が流行りました。

「また出たと 坊主びっくり 貂の皮」


 脇坂家の「貂の皮」の由来を説明しましょう。
天正六年二月、丹波攻略で苦戦をしていた、明智光秀の元に、応援の為三百の兵を率いて甚内(当時脇坂安治は、甚内と呼ばれていました)は出陣しました。そのとき丹波黒井城主は、丹波の赤鬼と云われた、猛将赤井悪右衛門直正ですが、この時は背中に疔(化膿してできる腫れ物)を患い重病でした。甚内は単身黒井城に乗り込み、悪右衛門に降伏を勧告しました。悪右衛門は拒否しますが、甚内の勇気を称えて、代々伝わる貂の皮の槍鞘を与えました。甚内がこの貂の皮は雄かと尋ねると、悪右衛門はそうだと言います。雌はどこにと甚内が尋ねると、
「雌の貂はまだわしの背に居る。もし欲しくば、明日卯の刻、槍先で取ってみることだ」
悪右衛門はこう答えました。降伏はしないから、明日の戦いに勝って、自分の力で奪い捕ってみろと言っているのです。
翌早朝、甚内は手勢三百を率いて、黒井城を攻めました。城方も五百ばかり押し出して、大激戦となりますが、甚内は脇目も振らずに、貂の皮の指物を背負って、悪右衛門一人を目指し突進します。悪右衛門が甚内に遭遇すると
「やあ、約束を違えずきたか」
と嬉しそうに微笑み、槍を合わせました。猛将と云われた悪右衛門でしたが、病を負っていては力が出せず、押され気味になって組み伏せられると、背中の疔が破れて夥しく出血しました。甚内はその機を逃さず、悪右衛門の首級を上げると、「悪右衛門討ち取ったり」と叫び、主人が討たれたと知った赤井勢は崩れて敗走しました。
 それ以来、甚内は雄雌の貂の皮二本を、旗指物として数多の戦陣を駆け巡りました。


 脇坂甚内安治は、天文二十三年(1554年)近江浅井郡脇坂庄の生まれです。父安明は小谷城浅井長政の家臣で、長政が織田信長と、六角承禎の箕作城を攻めたとき戦死しました。十五歳の甚内も従軍していましたが、信長旗下の武将木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)に拾われ家来になります。元亀元年(1570年)、近江横山城から石山本願寺攻めに出陣する秀吉は、年少の者は城に残れと命じますが、十六歳の甚内は命令に背き、兵に紛れ込んで大坂に向かいました。途中で甚内が居ることことに気付いた秀吉は咎めずに、
「甚内、その志忘れまいぞ」
と言って、馬を一頭与えました。甚内はその時から、騎馬武者になっています。私は前に、「賤ヶ岳七本槍」は皆、秀吉の小姓と書きましたが、加藤清正福島正則らより、かなり年輩の甚内は小姓ではなく、秀吉に近従して居たので、七本槍に加わったのではないかと推察しています。

 天正十一年(1583年)賤ヶ岳の合戦で甚内は武功を上げて、七本槍の一人に加わりますが、具体的な活躍の内容は記録がありません。しかし他の者と同じに、感状と三千石の録を与えられましたので、それなりの手柄はあったと思います。甚内は三百石の小録から、三千三百石になり、五百人の鉄砲足軽を預けられ、美濃大垣城の城番となりました。

甚内が大垣城の城番の時に、こんな事件があります。
織田信雄(信長の次男)が徳川家康と組んで、秀吉に叛旗を翻しましたが、信雄の家老滝川雄利の嫡子奇童丸は、大垣城に人質となっています。雄利は一計を案じ、清洲城から大垣城に馬を走らせ陣内に面会すると、母親が重病で一目息子に会いたがっているので、一夜だけ帰してくれないかと頼みました。雄利は甚内から見れば、主筋の家老ですし、同情もしたのでしょう、あっさり奇童丸を引き渡してしまいました。
翌日清洲城で、織田信雄が秀吉に宣戦布告をしたので、さあ大変です。秀吉は甚内に
「甚内、われは三介殿(信雄のこと)に内通しおったな」
と激怒しました。甚内は平伏し、必ず取り戻しますと言い様に、与力二十騎のみを率い、雄利の居城伊賀上野城に跳んで行きました。
「あいつは、あの人数で上野城を攻める気か・・・」
と怒っていた秀吉も、さすがにあきれ顔で見送ります。
しかし、甚内には奇計がありました。伊賀国に入ると野武士のような伊賀の郷士に、恩賞を出すと言って掻き集め、百姓には篝火を持たせ、三方から上野城を囲みます。そして、秀吉が十万の兵を率いて攻めてくると流言を放つと、すっかり騙された雄利は搦手から抜け出し、伊勢路に逃れてしまいました。甚内は上野城を占領し、城に「貂の皮」の馬標を押し立て、秀吉に上野城陥落の報告すると
「さすがは甚内、七本槍の勇士だけのことはある」
と、秀吉はすっかり怒りを忘れて激賞しました。
甚内はこの功で伊賀国を与えられると、その後何度か転封して、天正十三年、淡路国三万石洲本城の城主となり、従五位下中務少輔に任官しました。そしてこの頃に、甚内から安治と改名したようです。


 さて、脇坂安治に関しては、意外と面白い話があったので、今回の「枠」をかなり使ってしまいましたが、これより後の安治は、余りパッとした活躍はありませんでした。
 文禄・慶長の役では、加藤清正に引けを取らない程、相当の活躍をしましたが、褒めてくれる秀吉が死んでしまっては骨折り損です。関ヶ原の戦いは、最初から家康に味方をする旨の書状を送ってあったのですが、大坂に対陣していたので東軍に合流できず、渋々西軍と行動を共にしました。戦場で身動きが取れずにいるところ、小早川秀秋の裏切ったので呼応して、大谷刑部隊を攻めましたが、揚げ句の果てには「輪違いに振る」と冷やかされる始末です。関ヶ原の後、二万石を加増されて、五万三千石の伊予松山城主をなりましたが、加藤清正福島正則が大封を得たのに比べれば、十分の一程度の拝領でした。大坂の役では東西どちらにも組みせず、元和三年(1617年)には禄高そのままに、信濃国伊奈郡飯田に国替えを命ぜられ、それを機に嫡男安元に家督を譲って京都西洞院に隠棲しました。
寛永三年(1626年)八月六日、安治は七十三歳の天寿を全うしました。


「北南それとも知らずこの糸の ゆかりばかりの末の藤原」

 三代将軍家光の治世に「寛永諸家系図伝」が編纂され、諸大名は家系図を提出しましたが、脇坂家は安治の父から稿を起こし、冒頭にこの和歌をしたためました。「藤原の末と言ってはいますが、はっきりと分かるのは安明、安治、安元の三代だけで、それ以前はどこの馬の骨か分かりません」と云った意味です。正直に申告した事と、当意即妙の和歌を見た家光は、文武両道に長けていると賞したそうです。
 脇坂家はその後、播州龍野藩主に転封して、禄高はそのままで明治維新を向かえます。家名は永らえましたが、安治の血筋は、嫡男安元に子が無く、老中堀田正盛の子を養子に迎えて継がせましたので、三代で途絶えました。
結局、将軍家光に提出した家系図の三代のみが、脇坂安治の血脈です。