「平治の乱」へのおさらい5

源左馬頭義朝 赤地の錦の直垂に黒糸威の鎧、鍬形を打った五枚兜の緒を締めて、怒物作りの太刀を帯び、黒羽の矢を背負い、節巻の弓を持って、黒鴾毛の馬に黒鞍を置いて、日花門に引いておいた。年三十七、眼差しも面魂も他の者とは違っている。嫡子悪源太義平…

「平治の乱」へのおさらい4

先週見逃した「平清盛」を再放送で観たが、今日の回はもう「平治の乱」なのか。 少し進行が早いので驚いた。これで一年持つのか心配だ。自分の知っている限りでは平治の乱以降、源氏勢力は完全に滅ばないまでも体を成さない状況。平氏は旭日昇天の勢いで、平…

「平治の乱」へのおさらい3

藤原信頼はある意味では「平治の乱」の一方の主役である。 大河ドラマでは違った容姿だが、伝わっているのは大変な美男子で、幼少のころから後白河に寵愛された。愚管抄には「あさましき程に御寵愛ありけり」(巻五)とある。

「平治の乱」へのおさらい2

碩学信西入道は不仲であったが藤原頼長を、「日本一の学生」と褒めている 一方の頼長も相当な自信家であったが信西のことを「天才之才子 絶代之高才」と自身の日記「台記」で絶賛をしている。 信西の知識は和漢に通じ、残っている書物、「信西入道蔵書目録」…

「平治の乱」へのおさらい1

源義朝には男子がたくさんいるが母親はそれぞれ違う。長男、悪源太義平の母は三浦大介義明の女(むすめ)、次男朝長の母は相模秦野の波多野義通の妹、次の頼朝の母は熱田の大宮司藤原季範の女、次の希義の母は駿河藤原の友忠の女(頼朝と同母の説もある)、次の…

保元の乱

今晩の平清盛は「保元の乱」か。予告編を観ると、鎮西八郎為朝の強弓が炸裂するようで楽しみだ。 「保元物語」は為朝の絶倫の武勇を称える話で、一方の清盛はその強弓を恐れて、為朝の守っている門を迂回する様を、滑稽に描いている。それは「平治物語」が鎌…

生類憐みの令

徳川綱吉 「天下の悪法」と言われました。 徳川五代将軍綱吉の治世で行われた生類憐みの法令のことですが、綱吉の評価と共に、最近は見直されようとしています。 よく知られているこの法令の成り立ちですが、綱吉に世継ぎが出来ないことを心配した母桂昌院は…

増山弾正少弼正利

春日局 さて問題です。この表題の人物は何者でしょうか? ヒントは江戸時代、徳川三代将軍家光の治世の人です。 直ぐに解答ボタンを押した人は、相当な歴史通か時代小説のマニアですね。 今回、この増山正利を取り上げた理由は、まさに波瀾万丈、当時として…

天地人

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。 しっかり正月休みを取ってしまいましたが、今日からまた再開しますので、よろしくお願いいたします。 NHK大河ドラマ「天地人」の第一回を観ました。高視聴率だったそうですが、なかなか内容も良かった…

加藤肥後守清正

「加藤肥後守清正」 本妙寺所蔵品 「賤ヶ岳七本槍」を取り上げてきましたが、残った最後の一人、そして、区切れ良く本年最後の書き込みとなった、加藤肥後守清正をご紹介します。 七本槍の中で最も有名な武将は、加藤清正だと思います。逸話も沢山残っている…

加藤左馬助嘉明

「加藤左馬助嘉明」 滋賀県藤栄神社所蔵品 慶長五年(1600年)九月十五日正午頃、関ヶ原の戦いで東軍勝利が確定すると、西軍は雪崩をうって敗走しました。逃げる西軍を追って最後の手柄を上げようと、東軍諸隊の陣形は大きく乱れますが、加藤嘉明の兵だけは…

片桐東市正且元

「片桐東市正且元」 大徳寺玉林院所蔵品 ある意味では「賤ヶ岳七本槍」の中で、最も不運だったのが、片桐且元かもしれません。 私は且元のことを、豊臣秀吉の誠実な忠臣であったと思っていますが、図らずも且元本人の意に反して、豊臣家滅亡を早める為の、手…

糟屋助右衛門武則

加古川城跡 「称名寺」 「賤ヶ岳七本槍」は関ヶ原の戦いで、両加藤、福島、平野、脇坂の五人が東軍に参加、どちらかと言えば家康よりの、片桐且元が豊臣秀頼の傳役で大阪城を動かず、唯一人、旗幟を顕して西軍に属したのが糟屋助右衛門武則です。西軍が敗れ…

脇坂中務少輔安治

「赤井悪右衛門討死の図」絵本太功記 「貂(てん)の尾を 輪違いに振る 関ヶ原」 江戸時代初頭、こんな川柳が流行りました。「貂」の皮は旗指物、「輪違い」は家紋、ともに脇坂安治の物ですが、関ヶ原の戦いで小早川秀秋の裏切りに呼応して、さっきまで味方…

福島左衛門大夫正則

「福島左衛門大夫正則」 東京国立博物館所蔵品 「酒は飲め飲め飲むならば 日の本一のこの槍を 飲み取るほどに飲むならば これぞまことの黒田武士」 もう忘年会の時期ですが、年輩の方ならよく御存知の、宴会芸の定番「黒田節」の一節です。この歌は福岡藩黒…

平野遠江守長泰

大和田原本藩初代藩主 平野長裕 「賤ヶ岳七本槍」最初の一人は、平野遠江守長泰です。のっけから、資料が乏しく難しい題材に挑戦しますが、後に回しても楽になるわけではないので、一番目にしました。困難を後回しにしないのは、私のモットーですから。 平野…

賤ヶ岳七本槍

岐阜城 今回から時を戻して、戦国時代をテーマに書いていきますが、戦国時代復帰第一弾は「賤ヶ岳七本槍」です。 これを選んだ理由は、とりあえず七回分が決まってしまうので、何を書こうか悩まないで済むと思った、安易な考えからです。しかし簡単ではあり…

日本刀のはなし

九月四日から「はてなダイアリー」を書き始め、今回で五十回目になりました。「五十回だからどうした」と云う感じですが、まあ、一応は区切れににはなるのでご報告しました。自分としては、まずまずのペースなので、この調子でやっていこうと思います。 今回…

旗本と御家人 そして商人

浅草料亭「八百善」献立 ※享保二年(1717年)創業、ペリーも接待で食事をした名店 勝海舟の曾祖父は、越後小千谷出身で名前も分かりませんが、盲人だったそうです。江戸に出てから按摩をして金を蓄え、十万両の身代になり、地所も十ヶ所持っていました。どの…

旗本と御家人 

江戸時代は元禄期以降、幕府も諸藩も財政が逼迫していましたが、その原因は二つ考えられます。 一つは鎖国をして外国との貿易が無くなり、内需は米を生産する以外の大きな産業はありませんでしたから、経済が成長しませんでした。二つ目は、戦争がなくなり太…

泉州堺事件と切腹 その弐

今回は「R-15」としましょうか。或いは想像力が豊かな方は飛ばしてください。 切腹の習慣は平安時代末期から起こり、武士の自殺の手段でしたが入水自殺などもあり、必ずしも切腹して自殺をしたわけではありません。初期の切腹で有名なのは、「義経記」にある…

泉州堺事件と切腹 その壱

「堺事件」 Le Monde Illustr 外国人が日本の「武士」を想像するとき、髷を結って刀を差してと云った姿と同時に、「腹切り」(harakiri)を思い浮かべるでしょう。人によっては残酷でグロテスクな行為と考えるでしょうし、中には理解し難い武士の精神性に、…

続「言葉」で綴る 西郷隆盛

「西郷隆盛像」 鹿児島市城山町 「三郎様は地五郎(じごろ)でごわす」西郷隆盛が島津久光に向かって言った「台詞」でが、「地五郎」とは「田舎者」といった意味です。 西郷は「安政の大獄」のとき、幕吏の目を欺く為に奄美大島に潜伏していましが、「桜田門…

「言葉」で綴る 西郷隆盛

西郷隆盛 前回、坂本龍馬の事を書きましたが、今回は西郷隆盛にしようと思います。 表題に付けた「言葉」とは、西郷自身や周りの人が話した「台詞」とでも言えばいいのでしょうか、西郷の人と成りが顕れているものを探してみました。西郷の経歴や活躍を、改…

坂本龍馬奇譚「いろは丸事件」  後編

岩崎弥太郎 この「いろは丸事件」の少し前、慶応3年(1867年)頃から、坂本龍馬は土佐藩の執政後藤象二郎と親しくなっていました。後藤は本来、暗殺された土佐藩参政吉田東洋に近い人物ですから、武市半平太によって結成された、土佐勤王党の出身である龍馬…

坂本龍馬奇譚「いろは丸事件」  前編

坂本龍馬 幕末の有名人で最も人気があるのは、坂本龍馬(竜馬と書くのもありますね)かもしれません。2010年のNHK大河ドラマの主役も、龍馬のようですから、この論でいけば相当に視聴率も良いことでしょう。しかし水を差すようですが、私はそれ程好きではな…

二十一回猛士吉田松陰 その四

吉田松陰は野山獄に入牢中から、有名な尊王僧、周防の僧月性や安芸の僧黙霖と文通をしています。 月性は、西郷隆盛と入水自殺をした、僧月照とよく混同するのですが別人です。僧月性は熱心に海防の急を説いていた尊王攘夷の僧で、「人間到る処青山有り」で始…

二十一回猛士吉田松陰 その参

松下村塾の門弟で優秀だったのが、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎(稔麿)、入江杉蔵(九一)の四人で、「松門四天王」と呼ばれていました。 松陰はそれぞれの人物評を残しています。 高杉晋作の事 「性質は傲慢で、人の言うことに耳を傾けないように見える…

二十一回猛士吉田松陰 その弐

表題に付けた「二十一回猛士」は松陰の号です。 生家の姓「杉」の字を分解すると、「十、八、三」となるので足して「二十一」。また現在の姓「吉田」を分解すると「十、一、口、十、口」となり、組み合わせると「二十一回」になるわけです。松陰が獄中で見た…

二十一回猛士吉田松陰 その壱

吉田松陰が、類い希なる教育者であることは、門下生を見れば解ります。 久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)を初めに、伊藤利介(博文)、山縣小輔(有朋)、山田市之丞(顕義)、吉田稔麿、品川弥二郎、佐世八十郎(前原一誠)と皆維新運動に挺身し、…