泉州堺事件と切腹 その弐


 今回は「R-15」としましょうか。或いは想像力が豊かな方は飛ばしてください。


 
 切腹の習慣は平安時代末期から起こり、武士の自殺の手段でしたが入水自殺などもあり、必ずしも切腹して自殺をしたわけではありません。初期の切腹で有名なのは、「義経記」にある佐藤忠信の例です。源義経追討の宣旨で北条氏に追われることになりますが、文治二年(1186年)一月六日辰の刻(※)、京都六条の堀河の館で大軍に包囲され、もはやこれまでと腹を切って果てました。
「剛勇な兵が腹を切る有様を御覧あれ」
と大音声に叫ぶと、十文字に腹を切り傷口に手を入れ腸を掴みだすと、刃を口にくわえ前に倒れて喉に突き刺し絶命したと書いてありました。この行為が影響してか、源義経も奥州平泉で追い詰められると、付添った増尾十郎兼房に「佐藤忠義の様に切口が大きい方が良いのだな」と確認して十文字に腹を切り、腸を掴みだしたそうです。これも「義経記」に記録があります。

 当時の切腹は、刑罰という意味合いは無く、敵に捕らえられ斬首刑になる恥辱を味あわない為の手段だったわけです。また派手に腹を切って臓腑を取り出すという行為は、吾妻武士の気風で勇猛であることを顕しているのと同時に、新渡戸稲造の「武士道」にあるような、腹部に込められた霊魂を解放し、自分の身の潔白を訴えるために、文字通り「腹を割って」抗議する意味合いもあるわけです。このような臓腑を露出する方法で腹を切ることを「無念腹(遺恨腹)」と呼び、前回書いた「泉州堺事件」の箕浦猪之吉がこれに当たります。

 鎌倉時代末期になると、元弘の変(1331年)で村上義光が、大塔宮護良親王の身代わりとして自害する時に、
「只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹を切らんずる時の手本にせよ」  (太平記 巻第七)
と叫んで腹を切り、臓腑を掴み出し敵に投げつけた(とても信じられませんが)逸話があります。手本にしろと言うぐらいですから、当時はこのような壮絶な切腹が、それ程普及していたわけでは無いように思えますが、その後戦国時代になると、切腹のやり方がどんどんエスカレートして、派手で壮絶に行うことが勇気の表現になっていきました。
 逆に徳川時代になると、切腹も形式化、儀式化して、「無念腹」は見苦しい上に、公儀に対して反抗的な態度ととられ忌まれるようになります。聞いたことがあると思いますが、刀を持たず扇を当てるだけの「扇腹、扇子腹」というものがあります。これは武家社会では、武士にあるまじき臆病な行為と言われていましたが、実際には刀を使って行う場合でも、三方の上の刀に手を掛けた瞬間に、介錯人が首を落とすケースが多かったそうです。「忠臣蔵」の歌舞伎でも切腹の場面は、観客の袖を絞る一番の見せ場ですが、大石内蔵助の他数名以外は、「扇腹」だったのが事実のようです。


 しかし幕末になると、殺伐とした時代になりますので、切腹の様子も一変して中世のような形式に逆戻りです。土佐藩の志士武市瑞山(半平太)は、「三文字腹」の切腹を見事に行うのですが、このような場合は事前に介錯人と打ち合わせが必要です。そうでないと、三文字に腹を切る前に首を刎ねられてしまいかねません。それでも瑞山の場合は大変で、三文字腹は成功したのですが、座していることが出来ず前に突伏したので、介錯人は首を斬らずに後ろから心臓を貫いて止めを刺しました。腹を三筋に切れば、腹筋は完全に切断され、腹膜が内臓の圧力に耐えられずにはみ出し、腹壁が空気の抜けたボールの様になりますから、刃が滑って切り難くなります。何よりも、意思の力を越えるであろう激痛で、身体中の筋肉は硬直して思うような姿勢が保てず、失血で気を失うかもしれませんから、本人は当然ですが介錯人も大変難渋するわけです。
 三島由紀夫切腹した時、森田必勝が二度三度と介錯を試みますが果たせず、首は床で押し斬りにしました。三島の「解剖所見」が朝日新聞に掲載されましたが、切口は左腹から右腹へ十三センチを真一文字に切って、深さは約五センチあったそうです。とても姿勢を保ってはいられなかったと推測できますから、森田の不手際を責めることは出来ません。その後森田も腹を切り、同行した盾の会のメンバー古賀浩靖が介錯しましたが、森田はその時に、殆ど腹を切っていません。臆したのではなく、三島の末期を見ていたので、介錯をし易くする為にそのようにしたと思われます。そもそも三島の切腹介錯人を頼むやり方ではなく、薩摩の「人斬り」新兵衛のように、自分で喉などを突いて絶命するのが正しい方法と識者の批評にありました。
以上の分析を考慮すれば、「泉州堺事件」の箕浦の「十文字腹」や、武市瑞山の「三文字腹」が、如何に超人的な行いなのかはご理解戴けると思います。


 以前に若いボクサーが「負けたら切腹する」と公言して恥を掻きましたが、切腹は並大抵の精神力で行える事ではありません。介錯人がいればまだしも、腹を切って腸が垂れ落ちても、人間は簡単には死ねないのです。切腹して失血死を待てば、激痛のまま数時間掛かりますし、腸を傷つけて腹膜炎を起こしても直ぐには死ねません。先の大戦で、海軍中将大西瀧治郎は特攻隊の責任を取って、敢えて介錯人を付けず切腹しましたが、半日以上苦しんで死んだそうです。
格闘技を生業とする者が、「武士道」の精神を取り入れるのは多いに結構な事ですが、まず学ぶべきは対戦相手と雖も尊重し、目上の者は敬う、武士の「孝徳」の心を知るべきでしょう。「切腹」などという言葉を、軽々に口に出すことは許されないのです。

尤も、切腹は「真の武士」にしか赦されない、名誉ある死に方ですから、始めから資格もありませんでしたが。


※「吾妻鏡」では文治二年九月二十二日なっておりますが、本文の詳細は「義経記」を参考と致しました。



武士道 (PHP文庫)

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