片桐東市正且元


「片桐東市正且元」 大徳寺玉林院所蔵品


 ある意味では「賤ヶ岳七本槍」の中で、最も不運だったのが、片桐且元かもしれません。
私は且元のことを、豊臣秀吉の誠実な忠臣であったと思っていますが、図らずも且元本人の意に反して、豊臣家滅亡を早める為の、手先に仕立てられてしまいました。これは全て、徳川家康とその諜臣達の計略に、且元がまんまと掛かってしまったからです。秀吉亡き後、家康の行動は、徳川が天下人と成るための策謀に終始し、無駄な動きが一切ありません。豊臣家に対する罠は周到に仕掛けられ、もがけばもがくほど、絡みついて離れなくなるような、陰湿な計略もありました。且元は最後まで、徳川家と豊臣家が、友好な関係で続くように、両者の間で働いていました。しかし且元が、決定的な家康の罠に気付いたのは、有名な「方広寺鐘銘事件」だったのではないでしょうか。


 片桐且元の父孫右衛門直貞は、北近江の大名浅井長政の家臣でしたが、浅井家が滅亡すると、且元は十六歳で秀吉に拾われ、小姓として仕えることになります。賤ヶ岳の戦いで且元は、柴田勝家軍の猛将・拝郷五左衛門家嘉(久盈)を討ち取ったとの記録もありますが、拝郷を討ち取ったのは福島正則だという説も有り、どちらが真実なのかは不明です。兎に角、相応の手柄はあげたのでしょう、七本槍の一人に加わりました。その後も秀吉に付き従い、歴戦をしますが、両加藤や福島らと違い、実務家、文官としての働きが多かったようです。且元は近江の出身ですから、尾張組の加藤清正福島正則武断派よりは、石田三成ら文官派と近い間柄だったと思います。
 文禄四年(1595年)、且元は摂津茨木一万二千石を拝領し、従五位下東市正に任ぜられ、秀吉の嫡男秀頼の傅役を仰せつかりました。当初は、秀吉の叔父小出秀政と共に傅役を勤めていましたが、秀政の死後は、且元の双肩に責任が大きくのし掛かります。且元の所領は、加藤清正の二十五万石、福島正則の十一万石に遠く及びませんが、秀吉最愛の息子秀頼の傅役を勤め、秀吉の傍近く大阪城に居ることを、忠臣として誇りに思っていたことでしょう。

 関ヶ原の戦いの時に且元は、大阪城の秀頼の許に居り、戦闘には参加しませんでしたが、その行動は微妙です。弟の片桐貞隆を大津城攻めに派遣して、西軍側の手伝いをさせましたが、一方で嫡男の孝利を徳川家康に人質として送り、秀頼に敵意が無いことを家康に伝えています。私は思うのですが、石田三成の仕掛けた一世一代の大博打に、豊臣家の命運や秀頼の命を託することが、且元には出来なかったのでしょう。且元は既に、徳川家康が天下の権を握るだろうと分かっていたはずです。忠臣として、たとえ豊臣家が一大名になっても、生き残る術を模索していたのだろうと思います。
 役後に且元は、大坂開城の際に城門を警護したという、大した功でもないのに、一万八千石を加増され、大和龍田三万石の大名になりました。そして家康は、秀頼の母淀殿との対面の席で、且元を豊臣家の家老に推します。単純な且元は、家康に信頼されることで、豊臣家存続の力になろうと考えたのでしょうが、このことが原因で淀殿や他の者から
「やはり東市正は、関東の回し者であったか」
と疑いの目で見られるようになったのですから、皮肉なことです。家康は意識的に、且元を自分と豊臣家のパイプ役の様な存在にしますが、これが家康の深慮遠謀な策略であることに気づいた者は、且元も含め、まだ誰もいませんでした。


 慶長十九年(1614年)、「方広寺鐘銘事件」が起こります。家康が方広寺梵鐘の銘文を、家康を呪う言葉であると難癖をつけ、豊臣方に釈明も求めた事件です。有名ですから詳細は省略しましが、立派に成人した豊臣秀頼を疎んじて、徳川政権を末代まで安泰にしようとした家康の策略です。且元は駿府に赴き、家康に謝罪のため、謁見を乞いますが許されず、数日してから、家康の諜臣本多正純の屋敷に呼び出されました。正純は、淀殿が人質となり関東へ下るか、秀頼が大阪城を出て他国に移るか、秀頼自ら関東に下り和を乞うかと、厳しい三つの条件を突きつけます。全て、豊臣方が受け入れられない条件であることは読筋で、これを切っ掛けにして、豊臣家を武力で叩きつぶそうとしているのです。
且元は苦悩しますが、家康の罠はさらに周到です。且元を完全に信用していない淀殿は、別に大野治長の母・大蔵卿局と正栄尼を弁明のため駿府に送りますが、一転して家康は快く迎え、鐘銘事件などおくびにも出さず終始上機嫌でした。両者の違った報告を聞いた淀殿は、且元への疑惑を一層深め、城内には裏切り者の且元を殺そうと計画する者も出ました。且元は病と称して屋敷に籠もり、淀殿の再三の呼び出しにも応じませんでしたが、城内の評定で強行派の主張する関東との開戦が決まり、且元は裏切りの罪で切腹が申しつけられる、との情報を知ると、且元は大阪城を退去する事を決心しました。本拠地の茨木城に入った且元は
「お袋様(淀殿)は一度戦火を浴びぬと、目が覚めぬお方じゃ。大阪城は太閤殿下の築かれた城、少々のことでは落ちぬ。やがて講和のときがこよう」
と嘆息して語りました。
 
 慶長十九年(1614年)十月二日、東西はいよいよ手切れとなり、大阪冬の陣が開戦します。且元は家康の招きで帷幕に参じましたが、戦う為ではなく、あくまで講和の機会を探る目的でした。後世では、且元の指示で大砲を撃ち込んだと言われていますが、当時の大砲はそれ程命中率が高くないので、淀殿の居間に命中し、それが結局講和の要因になったのは偶然だと思います。斯くして大阪冬の陣終結し、且元は家康の勧めで駿府に屋敷を持ち、間もなく病床に臥すことになりました。家康は講和の条件で、大阪城の総濠を埋めると、態度を豹変させ、再度攻撃を命じます。大阪夏の陣の開戦ですが、且元を用心した家康は、駿府の屋敷から動くことを許しませんでした。

 慶長二十年五月八日、大阪城が落城し、燃え盛る炎の中で、秀頼、淀殿が自刃して果てた、という報を聞いた且元の心境は、いかばかりだったでしょう。且元は大阪夏の陣終結後、僅か二十日足らずで病死したと記録されています。しかし一説には、秀頼を死なせた責任を感じて、家康に裏切られたと口走っては、何度も悶絶し、同月二十八日、衣服を整え、香を焚き、西に向かって

「臣、使命を奉じて、無状功なし」

と叫び、切腹したとも伝わっています。享年六十二。


 且元の切腹説は、公式の記録に残ってはいないのですが、既に徳川の世となっていますので、このような「遺恨腹」が記録されないのは常識です。遺領は子の孝利(元包)が継ぎましたが、寛永十五年(1638年)三十八歳で死去、後嗣がなかったのですが、特命で弟の為元が大和龍田一万石を与えられました。その後、跡継ぎが何度も若くして夭折するのですが、その都度幕府は、特命で片桐家を継がせています。
 江戸時代初期、豊臣恩顧の大名は、幕府によってこれみよがしに取り潰されますが、何故か片桐家だけは特別で、存続させようと努力しているように見受けられます。
本当の理由を知る術はありませんが、片桐且元に対して幕府も、流石に後ろめたい気持ちがあったのではないでしょうか。