加藤左馬助嘉明


「加藤左馬助嘉明」 滋賀県藤栄神社所蔵品


 慶長五年(1600年)九月十五日正午頃、関ヶ原の戦いで東軍勝利が確定すると、西軍は雪崩をうって敗走しました。逃げる西軍を追って最後の手柄を上げようと、東軍諸隊の陣形は大きく乱れますが、加藤嘉明の兵だけは、一糸乱れず統制を保っていました。このとき嘉明は、敗走する敵兵が最後の反抗で大将を狙うことを用心して、地味な甲冑に着替えていましたが、これを聞いた徳川家康は、
「何事につけ、左馬助の巧者なることよ」
と感嘆したそうです。


 加藤左馬助嘉明は沈勇寡黙な武将です。
 あるとき、嘉明の小姓達が、焼けた火箸を火鉢に差して、知らずに触れた者が驚く様を面白がっていました。そこにやって来た嘉明は、いきなり火箸を握ると、掌から煙がでるほど焼けているにも構わず、平然と灰を掻きならし、一文字を書いて火箸を灰に差し込むと、何食わぬ顔で去っていきました。これを見ていた小姓達は、慄然として震え上がったそうです。
 またあるとき、嘉明が愛蔵する「虫喰南蛮」という十枚一組の茶碗一枚を、小姓の一人が過って割ってしまいました。小姓はお手討ちを覚悟して、嘉明に報告すると
「よくぞ正直に申した。過って割れてしまった物は如何ともし難い。茶碗が一つでも欠けていれば、これからのち、誰が割ったか忘れないであろう」
と言うと、残りの九枚も、砕いて捨てさせました。
嘉明は無口で勇猛な武将ですが、家来達は忠実に仕えています。自分の愛する銘記の茶碗とはいえ、大事な家来と引き換えにするようなことはしませんでした。


 嘉明の父は加藤三之丞教明といって、徳川家康の家臣でした。永禄六年(1563年)に三河一向一揆が起こると、教明は主君家康に背いて一揆側につき、出奔して近江国まで流れてきました。嘉明はちょうどこの年に生まれていますが、当時孫六と呼ばれていた嘉明が、十二歳頃まで、父と共に馬喰をしていたといいますので、貧しい生活ぶりが想像できます。十五歳のとき、尾張国羽柴秀吉の家臣加藤景泰に見出され、秀吉の養子秀勝(織田信長の四男)の小姓になります。
 天正五年(1577年)、秀吉の播磨攻めのときに孫六(嘉明)は、秀勝の小姓の仕事を放り出し、秀吉の陣に参じました。秀吉の妻寧々は怒って、孫六を帰すように秀吉に手紙を書きますが、秀吉は勇猛さを買って手元に置き、録三百石を与えています。翌年の三木城攻めのとき、初めて首二級を獲る武功を上げて、三百石加増され、都合五百石の知行取りとなります。
 賤ヶ岳の戦いのとき、孫六は二十一歳になっており、自慢の槍を振るって活躍し七本槍に加えられました。秀吉からは感状を与えられ、知行三千石を加増されて侍大将になっています。
 天正十三年、秀吉の弟秀長を総大将として四国征伐が行われ、孫六は舟を操り、土佐に攻め込む武功をあげますが、これが彼の水軍との因縁の始まりとなります。この頃、孫六は嘉明と改名し、従五位下左馬助に叙任されています。
 九州征伐や小田原攻めにも水軍の将として参戦して、文禄の役でも水軍を率い、李舜臣率いる朝鮮水軍と戦い、水軍の本拠地伊予松前六万石を与えられました。慶長の役では、元均の朝鮮水軍を撃破し、蔚山城攻防戦でも活躍し、その武功で伊予を含め四郡十万石に加増されます。
 

 そして、関ヶ原の戦いでは東軍を味方し、先鋒となって戦った功で石高は一挙に倍増して、伊予松山二十万石に転封となりました。三十七年前には、家康に背いて三河を追われ、馬喰までしていた嘉明が、その家康から大封を与えられたのですから、感慨無量だったに違いありません。
 嘉明は、藤堂高虎加藤清正と同様に、築城の名人です。皆に共通しているのは、朝鮮の役に参加していることで、当時日本より勝っていた築城技術を、朝鮮から学んできたものと思われます。嘉明は、城郭の縄張り、武家屋敷の地割りなど、ほぼ全てを自分自身で行い、異常なまでの情熱を松山城に注ぎ、改修なども含めると、二十四年の歳月を掛けて築きました。
 しかし完成目前の寛永四年(1627年)、嘉明は、会津藩主蒲生忠郷死後のお家騒動で、蒲生氏が没落した後を受けて、会津四十八万石に転封を命ぜられます。伊予松山は二十万石ですから、倍以上の加増です。大喜びで承知するだろうと思っていたところ、何故か嘉明は、松山城に留まらせて欲しいと幕府に願い出ました。理由は老齢なので、温暖な四国松山に留まりたいと言ったそうですが、真実は松山城への愛着が深かったからです。しかし願いは許さず、六十五歳の老齢の身体を、寒冷の地の会津に移しました。

 嘉明は赴任の途中、藤堂高虎を訪ねました。高虎と嘉明は、慶長の役のとき、先陣の手柄争いで、今にも斬り合いになるほどの喧嘩をし、以後口も聞かないほど不仲でした。しかし、二代将軍徳川秀忠会津を治める適任者を尋ねたところ、高虎は迷わず嘉明を推薦しました。秀忠は二人の不仲を知っていたので、訝しんで高虎に理由を聞くと
「それは私事でございます。私事のために公事を計ってはなりませぬ。奥羽を治めるのは、加藤侍従(嘉明)殿のごとき剛直な人物こそ適任と存じます」
と答えました。嘉明はこの話を聞いて、高虎へ推薦の礼を言うとともに、永年の不遜を謝罪しました。加藤家は録高では藤堂家を上回りましたが、以後は何につけ、藤堂家の下位になるように心掛けていたといわれています。

 寛永八年(1631年)九月十二日、加藤嘉明は江戸で死去しました。享年六十九。