増山弾正少弼正利


       春日局



 さて問題です。この表題の人物は何者でしょうか?
ヒントは江戸時代、徳川三代将軍家光の治世の人です。


直ぐに解答ボタンを押した人は、相当な歴史通か時代小説のマニアですね。
今回、この増山正利を取り上げた理由は、まさに波瀾万丈、当時としては考えられない立身出世をした人物だからです。勇猛な武将、優秀な官吏、否、どちらでもありません。それでは何故、それほどの出世をしたのかお話しします。

 徳川家光の正夫人は、関白鷹司信房の女・鷹司孝子ですが結婚当初より大変不仲でした。公家から嫁いだ二歳年上の妻を家光が何故嫌っていたかは諸説ありますが、家光の男色趣味が原因というのが有力です。乳母のお福(春日局)は、家光が女性に興味を持たないと世継が出来ないので、大変心を痛めていましたので、自分の縁者のおふりと云う女を家光の枕席に勧めました。大恩あるお福の言うことには逆らえないので、家光も励み、おふりが寛永十四年閏三月五日に千代姫を生むと、家光はお役ご免とばかりに、また男色専門となります。

 ところが突然、家光が自ら女に目をつけました。寛永十六年、伊勢の禅寺で尼寺の慶光院の住職が就任の挨拶で江戸に上がり、家光に拝謁しましたが、家光は一目でこの尼さんが気に入り、お福を呼びつけると
「あの住職が気に入った。なんとかせい
と言います。よりによって尼さんが趣味とは、お福も腰を抜かすほど驚きましたが、家光がやっと女に興味を持ったのですから何とかしないといけません。お福はこの尼僧をさんざん口説いて、還俗させることにするのですが、髪を剃った尼さんを枕席に侍らせることは出来ません。髪が生え揃うまで田安屋敷に留めてから家光に供し、お万という俗名に変わりました。家光はお万を寵愛すること一方ではありませんでしたが、子が出来ませんでした。一説にはお万の素性が、公家の六条宰相有純の娘であったため、世継を生むと朝廷の勢力が徳川家に伸びてしまうので、堕胎薬を飲まされていたとも言われています。しかし、お万によって家光は女性に目覚めたのですから、お福の思惑は当たりました。


 ある日、お福が浅草観音を参詣している途中、ふと籠の中から一人の少女を見つけて大変驚きました。その少女の容姿や物腰がお万にそっくりだったからです。お福は家光が気に入るのではないかと思い大奥に召し寄せようと、直ぐに供の者に少女の素性を調べさせました。少女の名はお蘭、その時十九でしたが、調べてみると少々問題があります。それはお蘭が死罪人の娘だったからです。
 お蘭の父親は一色惣兵衛といって下総古河(下野国都賀郡高島村という説有り)の百姓でしたが、過って禁鳥の鶴を撃ってしまいました。鶴を撃てば死刑になる大罪です。惣兵衛は動揺しましたが捨てるのも惜しく、日本橋の問屋に相談すると数寄者はいるもので、思わぬ高値で売れてしまいます。貧しい生活をしていれば、違法と知りながらも大金の誘惑には勝てません。ちょくちょく密猟をして江戸で売っていましたが、遂には露見して死罪となりました。
 惣兵衛の家族は「あがりもの」といって、一生奉公の奴隷になり、古河の領主永井信濃守尚政に預けられました。家族は妻と娘二人、末の男の子一人で、娘の姉の方がお蘭です。永井家で妻は奥女中になり、二人の娘も女中、男の子は茶坊主にされますが、故あって奴隷の身分を解放されると、妻は神田鎌倉河岸の古着屋七沢作左衛門と再婚しました。お蘭と妹は連子となって作左衛門のもとに身を寄せますが、男の子の方の消息は分かりません。大方故郷で百姓でもしていたのではないでしょうか。

 お福もお蘭の身上話を聞いて驚いたでしょうが、それでも大奥へ引き取り、お蘭はお福の部屋子となって諸事指南を受けていました。あるとき大奥で、お蘭を田舎者と見くびる朋輩から、在所の麦搗唄を無理矢理唄わされているところ、ふと来た家光は、その無邪気な様子に心を惹かれ、お蘭はその夜から伽に召し出されました。お蘭は間もなく懐妊すると、寛永十八年(1641年)八月三日に男の子を産みました。それが家光待望の長男で、後の四代将軍家綱です。片田舎の百姓で死罪人の娘が、数奇な運命で将軍世子の生母お楽の方になったわけです。
 そうなると親兄弟も放っておくわけにはいきません。田舎から弟を捜し出し、母方の姓増山を名乗らせ、正保四年(1647年)に新知一万石を与え、家綱の教育係にも就任、従五位下に任官して、増山弾正少弼正利という仰々しい名前になりました。万治二年(1659年)には三河西尾二万石に移封され、常陸下館藩二万石、伊勢長島藩二万石と移り、増山家は幕末まで残っています。
 

 正利のそこに至る詳しい経緯は分かっていませんが、想像するなら、ある日突然田舎の農家に駕籠を持った侍行列が着き、十五、六の男の子に美服を着せると、誘拐するように連れ出し、どこかの大名屋敷で言い含めて諸事教育したのではないでしょうか。
戦国動乱の時代であれば下克上もありますが、太平の世となれば、百姓が大名になるなど、メダカが鯨になるくらい困難なことです。増山正利は自分で望まずに成り上がったのですから、まさしく奇跡的といえます。家綱が将軍になると、正利はその叔父として大変な権勢であったそうです。


鶴渡る (1972年)

鶴渡る (1972年)