司馬史観

 十年程前から歴史書歴史小説に傾倒し、約一年で司馬遼太郎の全作品を読破しました。その後は海音寺潮五郎吉川英治、古いところでは幸田露伴などを読み漁り、「史記」「平治物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」「信長公記」などの史伝の現代語訳を読みました。
学生時代に歴史の授業が嫌いだった理由は、何の役にも立たないような年号の暗記や、将来決してその知識を使う必要がないと思われる、些末な事柄を覚えさせられる事に抵抗があったからだと思います。しかし史学を学ばず歴史小説ばかり読んでいると弊害もあります。

 小説は読者の興味を引くために、登場人物の性格の特徴を極端に誇張して表現している場合がありますが、それによって実際とは違う歴史上の人物のイメージが植え付けられてしまうからです。人の性格は実社会を見れば解りますが、誠実に見える人間が実は心の中では酷薄な面をを持っていたりする事は沢山ありますので内面は複雑です。また戦争ではどちらが良くてどちらが悪いと決めるのが難しいのに、小説ではベビーフェイスとヒールを作者が意図的に創作しています。色々な人の書物を読めば客観的な人物評も出来るのでしょうが、一人の作者の作品ばかり読んでいると、どうしても偏った考え方になりがちです。司馬遼太郎の「司馬史観」は多くの読者が影響され(私自身も含め)日本人が歴史上の人物を評価するときの基準のようにさえなっていますが、そのため一部の評論家からは歴史認識についての「司馬史観」に批判的な意見を持つ人も多々あり論争にもなりました。極端な話とは思うのですが、雑誌「プレジデント」は司馬史観の影響を受けた表現で歴史上の人物をよく取り上げているので、経営者が影響され、それが原因で日本式経営が行き詰まってしまったなどと論じる人まで現れる始末です。

 今日から自分なりの歴史認識や人物評を書いていこうと思っていますが、当然自分の考えも偏っているかもしれませんし、誰が正しい間違っているといった様な論評で書こうとも思いません。色々な書物であまり採り上げられなかった人物やよく知っている人物の意外なエピソードなどを書いてみたいと思っています。歴史小説家と違い、持っている参考文献も少ないので間違いもあるとは思いますが、読んで戴いて「これはちょっと違うな」と思われた識者の方は、どうぞ優しくご指摘下さいますようお願いいたします。