傳通院

傳通院本堂

 私の家の菩提寺は、文京区小石川の傳通院というお寺です。手前味噌となってしまいますが、なかなかの由緒ある寺です。
 応永二十二年(1415年)浄土宗第七祖了誉が開山し、当初は無量山寿経寺という名で呼ばれていましたが、慶長七年(1602年)八月九日、徳川家康の生母於大の方法名:傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定)が75才伏見城で逝去し菩提寺となったことから、傳通院と呼ばれるようになりました。山内には徳川家ゆかりのある人の墓のほか、幕末の志士清川八郎や明治初頭の政治家澤宣嘉などのお墓があります。また幕末の文久三年(1863年)に新撰組の前身となる浪士組が山内の処静院で結成され、将軍警護の目的で京都出立する前に結団式が行われたとも伝わっています
 傳通院の本堂を右に曲がり、墓所の中央付近には、メモリアルタワーのような傳通院於大の方の墓がそびえ立ち、さらに奥に入って行くと一段低い敷地に、徳川家ゆかりの人達の墓所が並びます。そしてその中の最も大きい墓石が、徳川家康の孫千姫のお墓です。
千姫のお墓は自分自身子供の頃から思い入れが強く、その理由は、墓石に刻まれた命日二月六日が自分の誕生日と同じ日だったので、いつも先祖の墓参りの度に家族からそのことを言れたからです。神君家康公の命日と自分の誕生日が同じであれば、縁起も良く将来有望などと思うところですが、数奇な生涯を送った千姫と同じでは、この偶然がおめでたいのかは微妙なところです。千姫は晩年男狂いであったなどの醜聞もありますが根拠の乏しい話で、逆に夫であった右大臣豊臣秀頼の側室の娘・奈阿姫が処刑になるところを、自分の養女にして助命嘆願を行ったという淑徳の心の持ち主でもありました。その後奈阿姫は出家して縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺の住職になり、千姫も生涯保護し続けました。
 この千姫ですが講談や浪曲などでも伝わる、面白い話しがありますので次回に書きたいと思います。