千姫

    千姫の墓

 

 千姫は慶長二年(1597年)に徳川家康の子秀忠と、織田信長の妹お市の方浅井長政の三女お江(小督)の間に生まれた女で、慶長八年(1603年)に七歳で太閤秀吉の一子豊臣秀頼に輿入れしました。お江と秀頼の母茶々(淀殿)は姉妹ですから、二人は従兄弟同士の結婚です。当時の武家社会は恋愛結婚というものはほぼ皆無で、全てが政略結婚です。結婚自体が個人の結びつきでは無く、家と家との結びつきの意味があったからですが、実際に母親のお江は秀吉の命で三度も政略結婚をさせられています。最初の結婚相手の佐治一成とは離縁させられて、二度目の夫豊臣秀勝(この当時豊臣秀勝は同姓同名がもう一人いて紛らわしいのですが、こちらは秀吉の姉・瑞竜院日秀の子)と結婚しました。佐治一成は所領を没収された挙句に追放されたとも、また憤慨して自ら武士を捨て出家してしまったとも伝えられていますので、まったくもって無情な話です。お江にとって秀忠は、三度目の夫ということになちます。
 話が脇道にそれてしまいましたので千姫に戻しますが、政略結婚とはいえ夫秀頼とは仲睦まじく過ごしてといわれています。父親似にて衆道には興味が無く、無類の女好きだった秀頼ですので愛妾は沢山いたようですが、これは当時の大名の慣習ですから問題にはなりません。千姫が九つのとき(十六歳のときという説もある)髪切りの儀式(鬢削)を行い秀頼自身が鋏をもって前髪を揃えたそうです。幼い二人が向かい合い髪を切ってあげる、小説的な美しい光景が目に浮かびます。
 
 慶長十九年(1614年)、天下取りに乗り出した徳川家康と豊臣方はついに手切れとなり大坂の役が始まり、翌慶長二十年(1615年)に大阪城は落城、豊臣秀頼淀殿は自害しました。千姫は落城寸前に救出されるのですが、千姫の母お江は、過去に二度も落城の城から救出(最初は小谷城、二度目は北ノ庄城)されているのですから、不思議な親子の因縁を感じます。お江の姉淀殿にいったては、落城の憂き目に三度あって最後に遂に亡くなったのですから、戦国時代とはいえ悲惨なものです。救出された千姫は直ぐ家康のもとへ行き、秀頼と淀殿の命乞いしましたが、家康は「将軍家次第じゃ。」と秀忠に押しつけ、秀忠が「助命まかりならん。腹を切らせろ。」ということになり願いは果たせませんでした。家康は、豊臣家を滅亡させるつもりだったのですから、二人を助命する気など無かったでしょうが、すでに七十四歳になっていた身では、幼い孫に嫌われたくないといった心境で、秀忠に言わせたのでしょう。
 この時落城の城から千姫を救い出したのが、岩見津和野の領主坂崎出羽守成正※(直盛ともいう)です。家康は大いに喜び「お千をその方につかわすぞ。」と言ったという説と「お千はまだ若い故、しかるべき縁辺を探してくれ。」と言ったという説があります。二人の年齢差と家格の差を考えれば後者が正しいと思われますが、どちらにせよこのことがその後の大騒動の火種となってしまいました。
 
 前回書いた講談にもなった面白い話というは、この坂崎出羽守が主役になりますが前置きが長くなってしまったので続きは次回に書きます。


※救出は別の人物が行ったという説もありますが、この後の騒動があまりに具体的に記録されているので坂崎出羽守救出説をとります。あしからず。