坂崎出羽守

   岡山城


 坂崎出羽守成正は岡山備前の宇喜多家の一族で、姦雄といわれた宇喜多和泉守直家の弟安心入道忠家の子です。当時、宇喜多左京亮と名乗っていた成正は、太閤秀吉没後の慶長四年(1599年)、有名な「宇喜多騒動」で主筋で従兄弟の宇喜多中納言秀家と対立し、戦になりそうな大騒ぎを起こしました。無二の豊臣方大名であった宇喜多家の騒動を、好機と考えた徳川家康は仲裁に乗り出し、反乱した家臣らを浪人させ、成正は伊勢亀山城主前田徳善院玄以に預けました。家康は宇喜多家を分裂させることで、力を削ごうと考えたのです。
慶長五年(1600年)関ヶ原の役が起こると、成正は亀山を脱出、「中納言に一泡吹かしてやる」とばかりに東軍に加わり、役後恩賞として岩見浜田で一万石を拝領して大名となりました。その時に「おん敵の名字なれば」と、姓を坂崎に改名したといわれています。

 一体、戦国時代の武将は往々にして剛直な性格の人が多いのですが、特にこの出羽守成正という人は特別で、この人の強情我儘はまさに気狂いといってもいいほどです。
その性格を現す逸話があります。ある時成正が、寵愛している小姓と甥の左門と通じている現場を見てしまいました。成正はその場で小姓を斬り殺し、逃げた左門を追いかけ、左門が祖父安心入道の元に逃げ込んだ事を知ったので、押し掛けて行き執拗に引き渡しを要求しました。関ヶ原の役で宇喜多秀家が滅び、宇喜多家の血を引く者は成正と左門しかいません。そのため安心入道は、涙ながらに左門を赦してくれるよう、成正に頼みましたが、頑として受け付けません。その後も、縁のある大名家を転々と逃亡する左門を追いかけ、ついには幕府に訴えでて、匿った大名を糾弾し、結局見つかった左門は切腹、大名家三家が取り潰される大騒ぎに発展しました。当時の男色の恨みが、どの程度深いものかは理解は出来ませんが、相当に執念深い性格であったことは推測できます。

 さて肝心の千姫救出劇以降のことですが、成正は家康に頼まれた千姫の再婚先をせっせと探していましたが、江戸に帰ってきた千姫は秀忠、お江の両親に「再婚するなら本多平八郎忠刻殿に」と突然告白しました。本多忠刻は徳川家中でも猛将の誉れ高い、本多平八郎忠勝の孫で、父は桑名藩主本多美濃守忠正、母は徳川家康の長男松平信康の次女熊姫ですので、千姫とは従兄弟半の関係になります。忠刻から見れば千姫は主筋のお姫様なので、千姫自身が前から知っていたのか、どこかで見初めたのかもしれません。当時の習慣では、個人の希望で結婚相手を決めるなど異例のことでしたが、悲惨な体験をしてきた娘に秀忠夫婦は同情してましたので、何とか希望を叶えてやりたいと考えます。早速秀忠は駿府の家康を訪れそのことを話すと
「故本多中書の孫とは良縁じゃが、出羽守との約束があるので、話をしておかないと面倒になる。よしよしわしが出羽守を説得しよう。」
ということになりました。こんどは成正を駿府に呼び出し、家康がことの成り行きを説明して納得させようとしましたが、成正は約束は約束と引き下がりません。既に再婚相手を見つけて話が進んでいたのかもしれませんが、強情者の成正は、相手が天下人の家康といえども意地を貫く気です。そうこうしている間の元和二年(1616年)一月、鷹狩に出た先で倒れた家康は重体になり、その後いくらか回復をしましが同年四月十七日に死去します。この病床の間に言い残したのかもしれませんが
「出羽守との約束はわしがしたことだから、死んだ後は知らぬ存ぜぬでお千を本多忠刻に娶せるように。」
と秀忠に遺言します。成正との約束は戦の陣中でのことですから、書付などは無く口約束だったのでしょう。その後も成正はごねて抗議をしますが、幕府は無視して着々と千姫輿入れの準備を進めてしまいました。輿入れ先の本多家は五万石を加増して、桑名から姫路に移し、婚姻後は十万石の化粧料が付くということですから、津和野で三万石の領地しかない成正の怒りは、さらに火に油を注がれた格好になったでしょう。いよいよ輿入れの日が近づいた頃、幕府に成正が輿入れ行列の途中を襲い、千姫を強奪しようと計画していると噂が入ります。さすがの幕府も慌てて、柳生但馬守宗矩を成正の元におくり説得をしますが、面会もせずに戦準備を始めています。もう穏便には済まないと考えた幕府は、成正の家老坂崎勘兵衛を召して、主人を諫めて自害させるよう命令しました。「君は一代、お家は末代」という言葉もありますが、当時は家臣でも家老クラスになると、主人への忠義よりお家大事を考えています。成正を説得出来ずに行き詰まった勘兵衛は、酒に酔って寝入った成正の首を、薙刀で掻き切ってしまいました。事情が事情とはいえ、なんともはや乱暴な話です。勘兵衛はこれで解決と思い、幕府に首を差し出すと、幕府の重臣本多上野介正純は
「諫めて腹を切らせろと申しつけたのに、寝首を掻くとは不忠ものめ!」
と勘兵衛を捕らえ切り捨ててしまいました。坂崎家は当然のごとく取り潰しです。

 その後が講談になる場面ですが、輿入れの行列が姫路に向かっている途中、暴風雨が吹き荒れ、成正の怨霊がもの凄い形相で千姫を睨みつけました。成正は千姫救出の際に、顔に大火傷を負っていましたのでさぞかし恐ろしい面体だったのでしょう。供の者達は舌を震って怯えていたのですが、千姫は怨霊から目をそらさず凛としていたそうです。
 その後、千姫は忠刻との間に一女を儲けますが幸せは長続きせず結婚十年目、忠刻は三十一の若さで死んでしまいました。またまた成正の怨念が忠刻の寿命を縮めたなどと、世間の噂になりましたが、怨霊、怨念が本当にあると信じられていた時代なのでしょうがないでしょう。千姫は忠刻の死後江戸に戻り、出家して天樹院と号しましたが、生涯徳川家からはおそろしく大事にされたそうです。



※坂崎出羽守に関しては文献や小説などが非常に少ないため、海音寺潮五郎先生の著書をおおいに参考にさせて頂き、私見を挿入いたしましたことを追記します。