2008-01-01から1年間の記事一覧

加藤肥後守清正

「加藤肥後守清正」 本妙寺所蔵品 「賤ヶ岳七本槍」を取り上げてきましたが、残った最後の一人、そして、区切れ良く本年最後の書き込みとなった、加藤肥後守清正をご紹介します。 七本槍の中で最も有名な武将は、加藤清正だと思います。逸話も沢山残っている…

加藤左馬助嘉明

「加藤左馬助嘉明」 滋賀県藤栄神社所蔵品 慶長五年(1600年)九月十五日正午頃、関ヶ原の戦いで東軍勝利が確定すると、西軍は雪崩をうって敗走しました。逃げる西軍を追って最後の手柄を上げようと、東軍諸隊の陣形は大きく乱れますが、加藤嘉明の兵だけは…

片桐東市正且元

「片桐東市正且元」 大徳寺玉林院所蔵品 ある意味では「賤ヶ岳七本槍」の中で、最も不運だったのが、片桐且元かもしれません。 私は且元のことを、豊臣秀吉の誠実な忠臣であったと思っていますが、図らずも且元本人の意に反して、豊臣家滅亡を早める為の、手…

糟屋助右衛門武則

加古川城跡 「称名寺」 「賤ヶ岳七本槍」は関ヶ原の戦いで、両加藤、福島、平野、脇坂の五人が東軍に参加、どちらかと言えば家康よりの、片桐且元が豊臣秀頼の傳役で大阪城を動かず、唯一人、旗幟を顕して西軍に属したのが糟屋助右衛門武則です。西軍が敗れ…

脇坂中務少輔安治

「赤井悪右衛門討死の図」絵本太功記 「貂(てん)の尾を 輪違いに振る 関ヶ原」 江戸時代初頭、こんな川柳が流行りました。「貂」の皮は旗指物、「輪違い」は家紋、ともに脇坂安治の物ですが、関ヶ原の戦いで小早川秀秋の裏切りに呼応して、さっきまで味方…

福島左衛門大夫正則

「福島左衛門大夫正則」 東京国立博物館所蔵品 「酒は飲め飲め飲むならば 日の本一のこの槍を 飲み取るほどに飲むならば これぞまことの黒田武士」 もう忘年会の時期ですが、年輩の方ならよく御存知の、宴会芸の定番「黒田節」の一節です。この歌は福岡藩黒…

平野遠江守長泰

大和田原本藩初代藩主 平野長裕 「賤ヶ岳七本槍」最初の一人は、平野遠江守長泰です。のっけから、資料が乏しく難しい題材に挑戦しますが、後に回しても楽になるわけではないので、一番目にしました。困難を後回しにしないのは、私のモットーですから。 平野…

賤ヶ岳七本槍

岐阜城 今回から時を戻して、戦国時代をテーマに書いていきますが、戦国時代復帰第一弾は「賤ヶ岳七本槍」です。 これを選んだ理由は、とりあえず七回分が決まってしまうので、何を書こうか悩まないで済むと思った、安易な考えからです。しかし簡単ではあり…

日本刀のはなし

九月四日から「はてなダイアリー」を書き始め、今回で五十回目になりました。「五十回だからどうした」と云う感じですが、まあ、一応は区切れににはなるのでご報告しました。自分としては、まずまずのペースなので、この調子でやっていこうと思います。 今回…

旗本と御家人 そして商人

浅草料亭「八百善」献立 ※享保二年(1717年)創業、ペリーも接待で食事をした名店 勝海舟の曾祖父は、越後小千谷出身で名前も分かりませんが、盲人だったそうです。江戸に出てから按摩をして金を蓄え、十万両の身代になり、地所も十ヶ所持っていました。どの…

旗本と御家人 

江戸時代は元禄期以降、幕府も諸藩も財政が逼迫していましたが、その原因は二つ考えられます。 一つは鎖国をして外国との貿易が無くなり、内需は米を生産する以外の大きな産業はありませんでしたから、経済が成長しませんでした。二つ目は、戦争がなくなり太…

泉州堺事件と切腹 その弐

今回は「R-15」としましょうか。或いは想像力が豊かな方は飛ばしてください。 切腹の習慣は平安時代末期から起こり、武士の自殺の手段でしたが入水自殺などもあり、必ずしも切腹して自殺をしたわけではありません。初期の切腹で有名なのは、「義経記」にある…

泉州堺事件と切腹 その壱

「堺事件」 Le Monde Illustr 外国人が日本の「武士」を想像するとき、髷を結って刀を差してと云った姿と同時に、「腹切り」(harakiri)を思い浮かべるでしょう。人によっては残酷でグロテスクな行為と考えるでしょうし、中には理解し難い武士の精神性に、…

続「言葉」で綴る 西郷隆盛

「西郷隆盛像」 鹿児島市城山町 「三郎様は地五郎(じごろ)でごわす」西郷隆盛が島津久光に向かって言った「台詞」でが、「地五郎」とは「田舎者」といった意味です。 西郷は「安政の大獄」のとき、幕吏の目を欺く為に奄美大島に潜伏していましが、「桜田門…

「言葉」で綴る 西郷隆盛

西郷隆盛 前回、坂本龍馬の事を書きましたが、今回は西郷隆盛にしようと思います。 表題に付けた「言葉」とは、西郷自身や周りの人が話した「台詞」とでも言えばいいのでしょうか、西郷の人と成りが顕れているものを探してみました。西郷の経歴や活躍を、改…

坂本龍馬奇譚「いろは丸事件」  後編

岩崎弥太郎 この「いろは丸事件」の少し前、慶応3年(1867年)頃から、坂本龍馬は土佐藩の執政後藤象二郎と親しくなっていました。後藤は本来、暗殺された土佐藩参政吉田東洋に近い人物ですから、武市半平太によって結成された、土佐勤王党の出身である龍馬…

坂本龍馬奇譚「いろは丸事件」  前編

坂本龍馬 幕末の有名人で最も人気があるのは、坂本龍馬(竜馬と書くのもありますね)かもしれません。2010年のNHK大河ドラマの主役も、龍馬のようですから、この論でいけば相当に視聴率も良いことでしょう。しかし水を差すようですが、私はそれ程好きではな…

二十一回猛士吉田松陰 その四

吉田松陰は野山獄に入牢中から、有名な尊王僧、周防の僧月性や安芸の僧黙霖と文通をしています。 月性は、西郷隆盛と入水自殺をした、僧月照とよく混同するのですが別人です。僧月性は熱心に海防の急を説いていた尊王攘夷の僧で、「人間到る処青山有り」で始…

二十一回猛士吉田松陰 その参

松下村塾の門弟で優秀だったのが、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎(稔麿)、入江杉蔵(九一)の四人で、「松門四天王」と呼ばれていました。 松陰はそれぞれの人物評を残しています。 高杉晋作の事 「性質は傲慢で、人の言うことに耳を傾けないように見える…

二十一回猛士吉田松陰 その弐

表題に付けた「二十一回猛士」は松陰の号です。 生家の姓「杉」の字を分解すると、「十、八、三」となるので足して「二十一」。また現在の姓「吉田」を分解すると「十、一、口、十、口」となり、組み合わせると「二十一回」になるわけです。松陰が獄中で見た…

二十一回猛士吉田松陰 その壱

吉田松陰が、類い希なる教育者であることは、門下生を見れば解ります。 久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)を初めに、伊藤利介(博文)、山縣小輔(有朋)、山田市之丞(顕義)、吉田稔麿、品川弥二郎、佐世八十郎(前原一誠)と皆維新運動に挺身し、…

出羽浪人 清河八郎

人を評価するとき、本当に人格や能力を、客観的に見て行っているでしょうか。実際はその人の血筋、家柄や所属している組織など、背景に目を奪われて、正しく評価が出来ていない事もあると思います。この男は後盾が何もなく、徒手空拳の身で多くの人々に影響…

神道無念流免許皆伝 永倉新八

新選組隊士に阿部十郎(隆明)という者がおりました。この阿部ですが、明治三十二年に新選組元隊士の談話を集めた「史談会速記録」に次のように語っています。 「近藤の部下の中で剣の腕は、沖田(総司)はなかなかよく、その次は斎藤(一)、そして永倉は沖…

拝啓 近藤勇殿

拝啓 近藤勇殿。否、流山で改名なさったので、大久保大和殿でしたか。それとも鬼籍に入られているので、戒名「貫天院殿純義誠忠大居士」でお呼びするのでしょうか。 ともあれ、貴殿に於かれましては、幕末期に新選組局長としてご活躍なさったことが、私共の…

示現流

前回まで続けて書いてきた「寺田屋騒動」が、自分としては大作だったので、今回は「小ネタ」にさせて頂きます。「寺田屋騒動」にも何度か出てきた、剣術の流派「示現流」ですが、元々はもっと古くからある「タイ捨流」が原点です。このタイ捨流ですが、肥後…

寺田屋騒動  「結」

大久保一蔵(利通) 寺田屋の同志達は、京都錦にある薩摩の藩邸に送られました。名前を上げていませんでしたが、この同志の中には、大山岩次郎(巌)、西郷慎吾(従道)、篠原冬一郎(国幹)、永山弥一郎など、戊申戦争に参戦し維新後も明治新政府の要職につ…

寺田屋騒動  「転」

「大山巌元帥陸軍大将」 ※当時は寺田屋の同志でした。格之助とは別人。 田中謙助が道島五郎兵衛に斬り倒されると、その頃には使者の残り五人も寺田屋に到着していました。 山口金之進は薬丸自顕流(薩摩示現流の流れ)の達人です。山口は抜刀するやいなや、…

寺田屋騒動  「承」

「寺田屋」 現在 文久二年(1862年)四月二十三日午後十時頃、島津久光の使者九名は二組に分かれ、奈良原幸五郎、道島五郎兵衛、江夏仲左衛門、森岡善助の四名が先着し、寺田屋に入って来ました。奈良原は寺田屋の主人伊助に、有馬新七との面会を求めると、…

寺田屋騒動  「起」

「島津久光肖像画」 尚古集成館所蔵品 薩摩(鹿児島)は、幕末の維新革命時に偉人達を綺羅、星の如く輩出しました。 西郷隆盛、大久保利通を筆頭に、上げればきりがありませんが、この日本最南の地(当時沖縄は、はっきりとした日本領土ではないので)から、…

井上馨

井上馨 「井上馨」、幼名勇吉、後に文之輔、聞多(もんた)、一時養子となって姓が志道(しじ)、複雑なので井上馨で通し話を進めます。 井上家はなかなかの名家で、先祖の五郎三郎就在は清和源氏の流れ、毛利家藩祖元成の重臣です。馨の父五郎三郎光享の頃…