加藤肥後守清正


 「加藤肥後守清正」  本妙寺所蔵品


 「賤ヶ岳七本槍」を取り上げてきましたが、残った最後の一人、そして、区切れ良く本年最後の書き込みとなった、加藤肥後守清正をご紹介します。
 

 七本槍の中で最も有名な武将は、加藤清正だと思います。逸話も沢山残っているので、何を紹介しようかと迷ったのですが、その中で、芝居や講談のネタにもなった「地震加藤」の話を選びました。
 慶長元年(1596年)閏七月十二日、畿内で未曾有の大地震が起こりました。どのくらいの地震かと言うと、後年の研究で、阪神淡路大震災を上回るマグニチュード8に近い地震だったそうです。竣工したばかりの伏見城は崩れ去り、天守の五階に居た豊臣秀吉は無事脱出しましたが、「増補家忠日記」に因ると「上臈女房七三人、仲居下女五百余人横死す」と書いてあるような大被害を受けました。秀吉は庭に仮屋を造らせ、淀殿と嫡男お拾を抱いて非難していましたが、まさにそのとき、梃子を持たせた屈強な手勢三百人を引き連れた武将が現れます。その、いの一番で駆けつけた武将が、謹慎中だった加藤清正だったのです。
 清正は、文禄の役の命令違反で、秀吉の勘気を蒙り、釈明の目通りも許されず、伏見の屋敷に蟄居していました。しかし地震が起こると、秀吉の身を案じ、矢も盾もたまらず伏見城に駆けつけます。これは、本能寺の変も記憶に新しい時期ですから、ひとつ間違えると、謀叛を起こしたと誤解されても言い逃れ出来ない振る舞いですが、清正はそんなこともお構いなしに、秀吉に対する純粋な忠義心で行動しました。
 秀吉は混乱の中での暗殺を恐れ、女物の着物を着ておろおろとしていましたが、清正が前に来て平伏すると
「虎か、よう来た、よう来た。一番早かったぞ。流石は子供の頃から手塩に掛けて育てただけはある」
と言って、いつもの調子に戻り、上機嫌で褒めました。
そのとき、ふと秀吉は篝火に照らされた清正の顔を覗き込み
「そなた、暫く会わぬうちにやつれたのう」
と一転、優しく声を掛けました。
それを聞いた清正は堪えきれず、堰を切ったように号泣しました。叱られてしょげている子供が、母の優しい言葉で泣き出すのと似ています。幼い頃から、母一人の手で育てられた清正にとって、秀吉は父親にも等しい、いやそれ以上の存在だったからです。


そして同時に、秀吉へ讒言して自分を陥れた、石田三成小西行長への憎しみが増幅されたことも、間違いないでしょう。


 加藤清正の幼名は虎之助。三歳で父加藤清忠を病で亡くし、母伊都に女手一つで育てられました。伊都は秀吉の母奈加と従兄弟、或いは叔母姪の間柄だったとの二説がありますが、年齢差を考えると後者の説が自然です。つまり清正と秀吉の関係は、また従兄弟になります。
 元亀元年(1570年)伊都は九歳の虎之助を連れて尾張を訪れ、秀吉母子に息子の将来を託しました。血族を大変大事にする秀吉ですから、二つ返事で虎之助を引き取り、秀吉の妻寧々は我が子のようにして育てました。この頃の秀吉は、三千の兵を率いて朝倉義景討伐の真っ最中ですから、虎之助の養育は寧々が一身に行ったと思われます。
 清正は宝蔵院胤栄に槍術を習い、秀吉の家中でもその腕前は有名になりました。また母伊都は、少年の頃から可愛がっていた、森本義太夫、飯田角兵衛という少年二人を連れてきて、虎之助の配下に据えました。これが後に庄林隼人を加えて、加藤家の三傑と呼ばれる忠臣に育っていきます。
 
 天正九年(1581年)、清正は、鳥取城攻めで初めての武功を上げると、翌年の山崎の合戦、翌々年の賤ヶ岳の戦いと、自慢の槍を縦横に振るい、次々活躍します。賤ヶ岳の戦い七本槍に名を連ね、三千石(のちに追加され五千石)を加増され、従五位下主計頭に任官。天正十四年、秀吉の九州征伐の後に、肥後の領主佐々成政一揆の鎮圧に失敗し、その責任を負って切腹になると、清正は肥後半国十九万五千石(二十五万石の説もある)を与えられました。
 肥後の残り半国は小西行長に与えらましたが、入部して間もなく、小西領の天草で一揆が起こります。行長は三千の兵を差し向け戦いますが、一揆勢は強く、思わぬ苦戦を強いられ、行長は清正に助勢を頼みました。元々仲の良くない二人でしたが、清正はそれほど料簡の狭い男ではありません。ましてや秀吉から「力を合わせて肥後を治めろ」との命令もありましたので、清正は腹心に千五百の兵を預け救援に送り、一揆を平定しました。秀吉は清正を大坂城に呼びよせ、言葉を尽くして激賞し、自らの腰に差していた左文字脇差を、褒美として与えています。
 秀吉が、二人を肥後の領主に就けたのは、近く実行を計画していた朝鮮征伐の先鋒とする為でしたが、激しく憎しみ合う間柄になろうとは、夢にも思っていなかったことでしょう。
 九州征伐小田原征伐が終わり、人臣を極め、関白太政大臣となった秀吉には、もう以前のような頭の冴えはありませんでした。「人たらし」と言われ、相手の心を読む達人だった秀吉が、後に豊臣家滅亡に繋がる火種を作ってしまうとは、急激に老衰したとしか思えてなりません。


 加藤清正の名が日本のみならず、朝鮮まで知れ渡ったのは、「文禄慶長の役」での働きが所以です。
 清正は、身の丈六尺三寸(約百九十一センチ)と伝わる巨体の上に、銀のたたきの長烏帽子の兜を被り、次々と敵を撃破して進軍しました。朝鮮兵は清正の、この怪物のような巨大な容姿を見て、「鬼上官」とあだ名して、恐れていたと云われています。
釜山港に上陸すると、向かうところ敵なしで漢城を攻略、更に北進して、臨津江の戦いで朝鮮軍を破ると、海汀倉の戦いでも勝利して咸鏡道を平定、朝鮮の二王子(臨海君・順和君)を捕虜にする抜群の手柄を上げました。清正は、部下の略奪や焼き討ちを厳しく禁じ、捕虜にした王子達も鄭重に扱ったと伝わっていますが、朝鮮側の記録では、大悪党の代名詞になっているのは大変残念です。
 水軍の戦いは、日本側が不利でしたが、陸地戦ではもう明国の国境近くまで進軍する勢いとなっていました。しかし、諸隊の連携はあまり良くありません。小西行長とは相変わらずの不仲で、抜け駆けの先鋒争いが絶えず、行長を擁護する石田三成ら奉行達と、清正を味方する黒田長政武断派の亀裂は深くなる一方です。朝鮮との戦争を早く終結させたい、石田三成小西行長でしたので、策を労して和議に持ち込みます。このときに、前述の「加藤地震」の事件も起きているのですが、原因は三成らの讒言が原因で、清正との不和は決定的なものになりました。

 和議は直ぐに決裂して、慶長二年(1597年)二月、再び戦さが始まりました。清正と小西行長の二人は別路の先鋒となり、快進撃を続けて全羅道の道都全州を占領。駐屯していた西生浦倭城の東方に、清正自身が縄張りをした蔚山倭城を築城します。完成間近の同年十二月、明の大軍が押し寄せかて、有名な蔚山城の戦いが始まると、清正は待機していた西浦生倭城から、五百の兵を連れて援軍に駆けつけ、籠城しました。明軍約五万八千に対して、籠城軍は四千足らずの寡兵でしたが、よく善戦して持ち堪え、黒田長政小早川秀秋らの援軍も到着し、明軍を撃退しました。慶長三年九月、第二次蔚山城の戦いも起こり、清正は再度籠城戦を行いますが、同年八月十八日、豊臣秀吉が死去すると撤退命令が出され、清正も帰国することになりました。


 豊臣秀吉亡き後のことは、一連の「賤ヶ岳七本槍」で書いてきましたので省略しますが、加藤清正の活躍も、秀吉の死の後は、あまり輝いていません。
関ヶ原の戦いのときは、九州の西軍勢力を次々撃破して、戦後の論功行賞で肥後全土、五十二万石の大封を与えられました。慶長十年(1605年)に従五位上侍従肥後守に任官。慶長十六年(1611年)3月の徳川家康豊臣秀頼の歴史的な会見の実現に、福島正則らと尽力します。
無事に会見を終えた清正は
「清正もお暇を給りて 肌に隠しはさめる腰刀を抜出し一見して 則鞘に納め是を押戴て落涙数行の間に申けるは嗚呼、清正冥慮に叶ひ 古秀吉公の厚恩今日にて奉報と云り」
と呟き、落涙したと「難波戦記」に記録がありました。

 伏見城の会見の後、肥後に帰る船中で発病した清正は、同年六月二十四日、愛着の深い熊本城で没しました。享年五十。
清正の死は、あまりにタイミングが良かったので、家康の毒殺説も流れましたが、賛否両論がありどちらとも言えません。ただあと十年、いや五年でも長く生きていたら、豊臣家の運命も違っていたでしょう。


 歴史を見て思うのは、「偶然」と「必然」が間断なく発生していることです。しかし、一つの事象が、果たしてどちらだったのかを判断するのは、長年研究しても、確定することは難しいものです。清正の死も、偶然か必然かは解りませんが、豊臣家の滅亡に大きい影響があったことは間違いない、と断言していいのではないでしょうか。