旗本と御家人 そして商人

 
 浅草料亭「八百善」献立  ※享保二年(1717年)創業、ペリーも接待で食事をした名店


 勝海舟の曾祖父は、越後小千谷出身で名前も分かりませんが、盲人だったそうです。江戸に出てから按摩をして金を蓄え、十万両の身代になり、地所も十ヶ所持っていました。どの様に金を稼いだかは定かではないのですが、まず間違いなく高利貸しだと思います。江戸時代には、盲人の金貸しが手厚く保護されており、貸倒れなどほとんど無かったので、巨万の富を手に入れたのでしょう。また特別な商才があったのかもしれません。曾祖父は金で買官して、盲人で最上位の検校に就き、長男忠之丞には御家人男谷家の株を買って幕臣にして、姓を改め「男谷検校」と呼ばれるようになりました。男谷検校の三男平蔵は妾に子を作りますが、その子が海舟の父小吉で、平蔵は小吉に旗本勝家の株を買ってやりました。
 一体、この頃の旗本や御家人は、前回説明したように大変に貧乏でしたので、背に腹は変えられず、金で家督を譲渡することがありました。それは幕府に限った事ではなく、土佐藩坂本龍馬も元々の家は商人でしたが、郷士株を買って武士になったのです。但し、金さえ払えばいきなり町人が、次の日から二本差しになったのではありません。御家人ならまだしも、旗本ともなれば形式上でも養子になるか、娘の婿養子にするかは必要で、その持参金の名目で金を受け取ります。初代検校が御家人男谷家の株を、三万両で買ったと云われていますので、旗本勝家でしたら相当の持参金を持っていって養子になったと思われます。


 小吉が隠居して夢酔と号し、家督を麟太郎(海舟)に譲った話は前回も書きましたが、当時は大変な貧乏暮らしでした。旗本になる為に金を掛けすぎたか、或いは無役の旗本暮らしで使い果たしたのか、どうして初代検校の財産が無くなったか、理由は分かりません。そんな当時の暮らしぶりを、海舟の談話集「氷川清話」に書いてありました。

 海舟は若い時に書物を買う金が無くて、いつも日本橋の書物屋で立読みをしていました。店主の嘉七という男は、理由を察していますので、立読みを黙認していましたが、ある時に北海道の商人で渋田利右衛門という者を海舟に紹介しました。渋田は豪商によく居る勉学熱心な人物で、江戸に出たときは金を惜しまず、珍本や有益な機械を買い求めていました。渋田は海舟を気に入り、交際を願い出ると、無理矢理に自分の泊まっている宿に引っ張って行き、その日はゆるりと談笑したそうです。二、三日すると、渋田は自分から海舟の家を訪れ、粗末な家もまるで気にせず話をしていました。昼になると「私が蕎麦を奢りましょう」と言って、財布から銭を出し、一緒に食べてまた平気で居ます。いよいよ帰りがけになると、突然懐から二百両の金を出し「これで書物でも買ってくれ」と言いました。あまりの出来事に返事も出来ない海舟を見て、渋田は、

「いやそんなに御遠慮なさるな。こればかりの金はあなたに差上げなくとも、ぢきにわけなく消費ってしまふのだから、それより、これであなたが珍しい書物を買ってお読みになり、その後を私へ送ってくだされば、何より結構だ」「氷川清話」より

と言って、強いて置いて帰ってしまいました。その時、同時に罫紙を渡して「面白い蘭書があったら翻訳して、この紙に書いて送って下され、筆耕量も二百両の内から払ってくれ」と言います。渋田は、海舟が紙代さえ乏しいだろうと思い、置いていったのです。
渋田はその後も海舟を援助していましたが、海舟がやっとお役を受けて、長崎に海軍術修行に行く時には、自分の事のように喜びました。しかし、海舟が長崎に行っている間に、渋田は若くして死んでしまいます。渋田の恩を徳としていた海舟は、大変残念がり、維新前に函館奉行に話をして、渋田の遺児達に帯刀を許すように働きかけてやりました。書物屋の嘉七が言うには、渋田は書物だけで年六百両を費っていたそうです。
 男同士の友情の美談ですが、金持ちの商人と貧乏旗本の対比がよく分かる逸話です。


 天保八年(1837年)、老中水野越前守忠邦は「天保の改革」で、町人の奢侈(贅沢)を厳しく禁止します。金持ちは表面だけ質素に見せかけ、実際は人目に立たない新道などに邸宅を構え、柱は鉋(かんな)が掛からない物をわざわざ選び、黄金の道具があっても燻して、金と分からないように使っていました。その頃の逸話で面白い物が、また「氷川清話」にありましたので紹介します。


 海舟が「中年の頃」と書いてありましたので、もう要職に就いて、生活も大分良くなっている時期だと思います。諸侯の御用達を勤めている商人が、紹介者を通じて、是非一盃献じたいと海舟に申し入れ、了解して浜町の邸宅を訪問しました。家の造作は極質素ですが、なかなか凝った造りです。しかし御馳走が、蒲鉾が一切、青菜のお浸し、吸い物の三品だけで、酒を振る舞い、帰りがけに饅頭を三つ土産にくれただけです。海舟はこの時、「わざわざ馳走したいと呼びだして、遠方から訪ねたのに、なんと粗末な扱いだ」と随分と腹を立てて、土産の饅頭は仏壇に供え、いつの間にか子供が食べてしまい、海舟自身の口には何も入りませんでした。
 四、五日して商人の紹介者が訪ねて来て、土産の饅頭は食べたかと聞きます。海舟は子供が食べてしまったと言うと、大変残念そうな顔をして、あの饅頭は特別な製法で、かれこれの苦心で作ったと子細を説明しました。小豆は幾升という高級品種で、粒の揃った物を厳選して餡を作り、砂糖は棒砂糖という、外国でも重宝されている材料を、何日も枯らして使い、水も玉川上水の取水まで、汲みにいった水を使ったと言います。蒲鉾は鴨を三十羽捻り、背肉のみを少しずつ選んで用い、青菜も茎の揃った物を、十籠二十籠から選んで煮浸した物だそうです。紹介者は御存じ無しに召上がるとは、情が無いとこぼし、海舟もそれは気の毒なこ事をしたと思ったそうです。

 
 こんな具合に、商人の金持ちは諸事、贅沢を尽くしていましたので、維新革命後に西郷隆盛を除き、政府の要職に就いた元士族の者達は、皆贅沢をしましたが、長年貧乏暮らしの反動だったのかもしれません。



 

江戸風流「食」ばなし (講談社文庫)

江戸風流「食」ばなし (講談社文庫)