坂本龍馬奇譚「いろは丸事件」  後編


    岩崎弥太郎


 この「いろは丸事件」の少し前、慶応3年(1867年)頃から、坂本龍馬土佐藩の執政後藤象二郎と親しくなっていました。後藤は本来、暗殺された土佐藩参政吉田東洋に近い人物ですから、武市半平太によって結成された、土佐勤王党の出身である龍馬や海援隊亀山社中)の主立ったメンバーから見れば、いわば敵のような存在です。しかし後藤が藩の商売を任され、土佐商会主任、長崎留守居役になると、龍馬に土佐藩の商売の協力を頼み、見返りでしょうか、龍馬の脱藩の罪が赦されるように上申して、海援隊土佐藩の外郭団体にしました。
 龍馬は藩という枠を越えて、商売で世界に打って出ようとしていたわけで、その為に維新革命の手助けもしたのですが、前回書いたように当時の海援隊の台所事情は困窮していたので、背に腹は変えられず古巣におもねったと、私は思っています。この頃、後藤の右腕となっていたのが、土佐藩岩崎弥太郎です。
後藤象二郎岩崎弥太郎の二人は、「いろは丸事件」に重要な関わりを持っているので、憶えておいてください。


 長崎に戻った龍馬、海援隊紀州藩明光丸の乗員達は、改めて協議を始めましたが、龍馬は態度を一変させて言います。龍馬の言い分は、衝突事件の非は総て紀州藩側にあり、船の代金四万四千両、積み荷はミニエー銃四百挺で八千両、その他米や砂糖も積んでいたので、積み荷の代金は合計で約四万両、締めて約八万五千両を弁済しろと要求したのです。そもそも事故の原因も、紀州藩名光丸の船体の傷が右舷にあったことや、いろは丸が舷灯を点けていなかった疑いなど、海援隊側の操舵ミスの可能性の方が高かったのです。また、百歩譲ったとしても、双方が動いている条件で衝突したのですから、片方の過失が全くないという論は、現代の交通事故の事例に照らし合わせてみても、不合理であることは確かでしょう。龍馬は「万国公法」を持ち出し、「日本ではまだ本格的な海難審判は出来ない」と屁理屈をつけて、長崎奉行の調停も無視して、挙げ句には紀州藩を恫喝して「皆殺しにしてやる」と息巻きました。

「船を沈めたその償いに、金を取らずに国をとる」

と龍馬達は戯歌を作り、花街で芸者に流行らせ宣伝して、一戦交える覚悟を示したというのですから、柄が悪いと言うほかありません。一方の紀州藩側も、ここまでやられては引っ込みがつかず、斬ってやろうと龍馬の宿屋に押し掛けますが、たまたま外出中で難を逃れたこともありました。


 さて、ここで一旦止めて検証しますが、実は龍馬の要求する賠償金はとんだ「ぼったくり」であることが解りました。今年四月十二日の産経新聞の記事に「いろは丸事件」の検証が載っていましたが、積み荷にミニエー銃四百挺は無かったという結論です。財団法人京都市埋蔵文化財研究所と京都の水中考古学研究所は、沈没した「いろは丸」の水中調査を昭和六十三年から行ってきましたが、平成十七年の第四次調査で海中の遺物をほぼ全て収集しました。しかしその中には、ミニエー銃はおろか一欠片の部品さえ見つかりません。米や砂糖は百四十年も経てば、海中には無いでしょうが、鉄製の銃が完全に消えてしまうことはありえませんから間違いないでしょう。
 これは私の推測ですが、いろは丸が何も積んでいなかったとは考えられませんので、米や砂糖は積んでいたかもしれません。ただミニエー銃の八千両は、この事故の賠償金に上乗せして、龍馬が騙し取ろうとしたに違いありません。そういえば海援隊が以前にやっと買った汽船を、不運な事故で沈没させてしまった事は前に書きましたが、その船の値段が確か六千三百ドル。両に換金してもほぼ同額です。私は「災い転じて福となす」で、龍馬は多目に取った賠償金で、また自前の船を購入しようと目論んだのではないかと疑っています。

「どうせ徳川御三家の金じゃ、多目にふんだくっても構わんだろう」

と龍馬は思ったのでしょうが、これでは「万国公法」も「国際法」もまったく関係ないわけです。
しかし、この程度ではただの「こそ泥」ですが、影に「大泥棒」も潜んでいたようです。


 紀州藩は、海援隊とは話がつかないと考え、後ろ盾になっている土佐藩後藤象二郎紀州藩勘定奉行茂田一次郎が直談判しますが、後藤との話し合いでも埒が明かず、茂田は「戦で決着する」と怒って帰ってしまいました。流石に慌てた後藤は、薩摩の五代才助に仲介させることにして、五代を龍馬の元に行かせて「七万両に負けてやれ」と説得します。返す刀で五代は紀州藩にも出向いて、賠償金を値引きすることを伝えて、紀州藩を納得させました。


 また止めますが、あれ、これはどう考えてもおかしいです。紀州藩側は事故の過失責任があると思っていないのに、八万五千両を七万両に賠償金を値引きしたくらいで、戦をするとまで息巻いていた怒りが、消えてしまうとは考えられません。なにか策謀があると思いませんか。
ここでまたまた私の推理ですが、後藤は五代を使いにして、こんな風に言わせたのではないでしょうか。

「今回の件でこれ以上大きな騒ぎにしては、貴殿や拙者にも責任が及ぶこと必定でござる。時節風雲急を告げている折、尊藩と弊藩が揉め事を起こしては、御公儀の覚えも悪かろうと存ず。そこでとりあえず、坂本に金を払って得心させ、後は拙者が理由を付けて取り戻し、貴殿にお返ししたらいかがでござろう。拙者も藩政を任されている身、約束を違えることはいたしませんぞ」

と、小説風に書くとこんな感じです。どうですか、創作ですがあっても不自然ではないですよね。もっと凝った話にするなら、茂田にキックバックを持ち掛けたでもいいですね。
しかしこれだけでは、後藤が騒ぎが起こる事を恐れて、その場しのぎの言い逃れをしたに過ぎませんが、この策謀はもっと奥が深いのです。


 いろは丸の賠償金七万両は、一旦土佐藩が預かる形になり、後に龍馬に支払われる約束でした。しかし僅か八日後の慶応三年十一月十五日、龍馬は京都近江屋の二階で刺客に殺されてしまいました。龍馬は、この賠償金を受け取る目的もあり、在京していたのですから何か臭いませんか。その後土佐藩から大洲藩に、「いろは丸」の弁償金や、商品が大洲藩の物ならその代金も、一切支払われていないのです。これは明治四年に大洲藩一揆が起こった時に、ある商人が「いろは丸の代金を支払わない、恨みをはらす」と言っていた事が、大洲史談会「温古」に掲載されていたので事実と思われます。後はご存知の通り、戊辰戦争あり、廃藩置県ありで、藩も何も無くなって、金の貸し借りなどうやむやです。

 私は後藤象二郎岩崎弥太郎、ひょっとしたら五代才助も一味で、七万両は山分けして懐に入れてしまったのではないかと睨んでいます。そう考えると龍馬暗殺も、実行犯「京都見廻組佐々木只三郎らに龍馬の所在をリークしたのは、後藤と岩崎である可能性がありそうです。暗殺などの陰謀は、誰が得をしたかを考えると黒幕が見えてきます。龍馬暗殺の黒幕は、「京都見廻組単独犯行説」「薩摩藩黒幕説」「大洲藩報復説」「紀州藩報復説」など色々ありますが、昔も今も金が絡むと人が死ぬことが多いので、私の説も有力だと思いますよ。


 さて、そろそろまとめようと思いますが、坂本龍馬も事故に便乗して、少しくすねようとしたのかも知れませんが、もっと悪い奴が横から入って、根こそぎ持っていってしまった図です。ご存知の通りその後、一味と睨んだ岩崎弥太郎三菱財閥を興し、巨万の富を手に入れるのですが、起業の原資は意外とこの金であったかもしれません。
 岩崎弥太郎の事業で、最も成功したのは海運業ですから、龍馬は金だけでなく事業まで横取りされてしまったわけです。もし真実が私の考えてる通りだとすれば、龍馬を好意的ではないと、再三言った私も流石に同情しますね。