坂本龍馬奇譚「いろは丸事件」  前編


      坂本龍馬


 幕末の有名人で最も人気があるのは、坂本龍馬(竜馬と書くのもありますね)かもしれません。2010年のNHK大河ドラマの主役も、龍馬のようですから、この論でいけば相当に視聴率も良いことでしょう。しかし水を差すようですが、私はそれ程好きではないのです。以前、司馬遼太郎作品を全作読破と偉そうに書きましたが、実は代表作と言われている「竜馬がゆく」は読んでいません。司馬作品では「竜馬がゆく」だけは、読んだことがあるという友人もいたのですが、話題に乗れず困ったことがありました。
「何故嫌いなのか?」と聞かれても、理由は無いですし、分析をする気もしませんが、「生理的」理由としか言いようがありません。
 そこで今回は坂本龍馬と、その亀山社中海援隊)が関わった「いろは丸事件」を研究してみます。当然ですが個人的理由もあるので、龍馬を好意的には書かないかもしれませんので、龍馬ファンには事前にことわっておきます。


 「いろは丸事件」は、「俄(にわか)」龍馬ファンでは知らない人もいるかもしれないので、事の起こりより簡単に解説します。
 文久年間、薩摩藩は薩英戦争に敗れた後、蒸気船や外国製の武器を買い込んでいましたが、仕掛けたのは薩摩藩士五代才助(友厚)です。五代は、維新後に実業家として成功するのですが、当時から武士というより商人としての才能がある人です。この五代は龍馬のスポンサーとなって、亀山社中設立の資金も用立てて、その見返りで龍馬も薩摩藩のビジネスの手伝いをしていました。当時は情報の流通が無く、蒸気船や外国製の銃などの価格が分かりませんから、仕入れた商品を他藩に売れば、相当な利益が上げられたので、龍馬も仲介をして薩摩が仕入れた商品を他藩に売ったりしていたわけです。
 亀山社中は五代の援助で、長崎のグラバー社から洋式帆船を六千三百ドルで購入します。龍馬はブローカーのような仕事をしていた訳ですが、遂に自前の船を持って、本格的に海運ビジネスを始めようとしていたのです。しかし運悪く、この船は曳航中に高波で転覆沈没してしまいました。龍馬は再度、五代に借金を申し入れますが、今度は貸してくれません。龍馬は船が無くては商売が出来ないので、次は長州藩に蒸気船を貸して貰いたいと頼むのですが、こちらも冷たい返事です。薩摩も長州も薄情なもので、龍馬の斡旋があって同盟が出来たのですが、出来てしまえば龍馬も亀山社中も必要なかったのですね。

 やはり藩という後ろ盾がない龍馬ですから、この時の社中の財政状態は相当に逼迫していたようです。そんな矢先に、五代が薩摩藩が持っている蒸気船を、四万四、五千両でどこかに売ってくれないかと龍馬に持ち掛けました。金に困っていましたので、渡りに船と、龍馬は丁度、武器の購入で長崎に来ていた、伊予大洲藩の国島六左衛門に

「武器など買ってる場合じゃないぜよ。これからは船で貿易をする時代じゃ。貴藩の為にもなる話ぜよ。」

と、多分こんな感じで巧みに勧め、購入させました。しかも大洲藩が買ったこの船を、海援隊亀山社中を改め)が一航海十五日間につき五百両で借用する約束も取り付けました。そもそも買ったのはいいのですが、お粗末な話で、大洲藩には汽船を動かせる者がいなかったのですから、海援隊に貸すしか無かったのでしょう。国島六左衛門はその後、藩に許可無く船を買った責任を取らされて、腹を切るのですから、後味も悪くなりましたが、龍馬にとってみれば、販売の口銭も貰っているでしょうし、商売の船も借りられて一石二鳥の話になったわけです。
この蒸気船が、長さ三十間、幅三間、深さ二間、四十五馬力、百六十トン、鉄製スクリューを持った「いろは丸」です。


 慶応三年(1867年)四月十九日、いろは丸は、海援隊の初仕事の商品運搬目的で、龍馬と海援隊隊士が乗り込み長崎を出港しました。ところが長崎を出港したいろは丸に、とんだ災難が降りかかります。馬関海峡を通り瀬戸内海に入った、二十三日の午後十一時頃、備中沖六島辺りを航行中に、逆に長崎方面に向けて航行していた、紀州藩の軍艦明光丸八百八十トンと衝突してしまいました。原因は、当時霧が濃く視界が悪かったとも、いろは丸が舷灯を点灯していなかったとも云われていますが、はっきりとは分かりません。兎に角、船の大きさが隔絶していますので、いろは丸は一溜まりも無く、近くの備後鞆港に明光丸が曳航している最中に沈没してしまいました。
この時に龍馬が、いろは丸の乗員の救出に尽力したとか、長崎行きを急ぐ明光丸側を「万国公法」を持ち出し、ごねて鞆港に立ち寄らせたなど、活躍を書いてある小説もありますが、創作臭い話は割愛します。

 鞆港へ上がって、龍馬と紀州側と責任問題、賠償問題が協議されるのですが、紀州は力が弱ったとはいえ、徳川御三家紀州和歌山藩五十五万石の大藩で、一方の龍馬の海援隊は、大洲藩の船に乗っているとはいえ、浪人集団に過ぎませんので格が違います。しかし龍馬は持ち前の交渉力で一歩も引かず、結局紀州側も長崎奉行に裁定して貰おうと考え、協議の場所を長崎に移すことになりました。
その時龍馬は一転して和やかに、いろは丸に積んでいた商品が沈んでしまい困っているので、商品代金一万両(一説には千両)を貸して欲しいと、紀州側に申し入れました。よほど龍馬の交渉が巧みだったのか、或いは紀州側も多少の非を感じて同情をしていたのか、「長崎へ行ってから善処しよう」と、そんなニュアンスで言ってしまったようです。


 さて、長崎に移動した双方は、再度協議にはいるわけですが、龍馬は突然態度を変えて、とんでもないことを言い出しました。
(次回に続く)