旗本と御家人 

 江戸時代は元禄期以降、幕府も諸藩も財政が逼迫していましたが、その原因は二つ考えられます。
一つは鎖国をして外国との貿易が無くなり、内需は米を生産する以外の大きな産業はありませんでしたから、経済が成長しませんでした。二つ目は、戦争がなくなり太平の世となりましたので、武士が「無為徒食の輩」になってしまったからです。武士は役人の仕事をしたわけですが、幕府の旗本・御家人は約二万人(※1)も居ましたし、諸藩も同様で全員が仕事にありつけるわけではありません。おのずと、ただ飯食いを大量発生させてしまったのです。幕府も諸藩もと、文頭に書きましましたが、諸藩より幕府の方が一層大変だったようで、維新革命で幕府が倒れたのも、極論で言えば財政難が原因だったとも考えられます。
旗本と御家人は幕府の財政悪化の煽りを受けて、大変貧しい生活を強いられます。今日はこの旗本と御家人の生態を書きたいと思います。


 旗本と御家人の違いは、共に一万石以下の直臣ですが、御目見以上(将軍に拝謁出来る資格)が旗本、御目見以下が御家人です。基本的に旗本は知行地を持ち、そこから年貢を取り立てて俸禄にしていたのですが、現実には江戸に在住する者が多かったので知行権を行使することは難しく、蔵米取り(幕府の米を俸禄として支給)と余り変わりがありませんでした。御家人は戦場では徒士の武士、平時でも馬に乗ることは許されず(与力など例外は有る)、家に門を設けることもできません。三代続けて重要な役職に就けば、旗本に昇格する機会はありましたが、多くは町奉行所の与力のような低い身分の役人です。それでも仕事が有れば良い方で、無役の旗本や御家人は沢山居て、生活は困窮を極めていました。

 時代劇を見るとよく聞かれる、「百石取り」や「三十俵二人扶持」は旗本や御家人の俸禄(年収)です。石高で表すものは前述の知行取りで、「百石取り」ならそれが収入というわけです。一石は十斗、一斗は十升、一升は十合で、一俵は四斗ですから、一石は一俵の2.5倍相当になります。しかし知行取りは石高を全て、自分の物にする事は出来ません。石高は知行地の生産量で、そこから税として取るわけですから、「四公六民」とすれば実収は石高の四割。百石取りなら四十石が収入となり、俵に直すと約百俵です。実質手取りで、簡単に考えると「石高=貰う俵の量」となるわけです。

「三十俵二人扶持」の俸禄は、知行取りと違い、蔵米から支給されます。三十俵は蔵米取りの分で、加えて扶持米として二人扶持が支給されます。扶持米とは戦国時代からの名残で、下級武士に与えられる手当の一種です。一人扶持は五俵ですから、二人扶持で十俵、蔵米分と合わせると、「三十俵二人扶持」は四十俵の年収になる計算です。現代の貨幣価値に変えて考えると、「百石取り」や「三十俵二人扶持」なら、なんとか生活は出来る収入ですが、苦しくなる要因がありました。それは俸禄の支給方法です。


 旗本や御家人の俸禄は、年三回に分けて二月、五月、十月に貰いますが、荷車に米を積んで家に持って帰ったのではありません。札差という商人が、俸禄分の為替と交換して現金を渡します。札差が米を換金する値段は、江戸城内の中之口に「御張紙値段」として掲示され、その時期の相場に合わせて支払われる仕組みになっていました。札差は換金の手数料を取ることと、俸禄米を担保にして、旗本や御家人を相手に金貸しをして利益を上げます。
時代劇では、悪徳商人の代名詞のように札差が登場しますが、実際に相当悪辣な手段で金儲けをしている者もいました。方法は御張紙値段が表示される時期を狙って、米の相場を下落させ蔵米を安く仕入れ、その後暴騰させて高く売抜く価格操作です。中には役人に賄賂を渡して、直接に御張紙値段を相場よりさらに安く掲示させる、悪どい方法もあります。そしてそれに共ない、貧苦の旗本や御家人には高利で金を貸し、奥印金(※2)という名目で利率をつり上げ、書き換えの度に手数料を取るなど搾取を重ねました。旗本や御家人の中には、何年も先の俸禄が借金の担保になっている者もいる有様です。

 一方の札差は僅か百件余りで、この巨大な権益を独占して、巨万の富を蓄えていました。文政二年(1819年)の調査では、札差の泉屋甚左衛門店が六万四千俵余を扱い、それでも業界では三番目だったとあります。また同店の天明八年(1788年)時点での貸付額は四万二千五百両にものぼっていたそうです。札差の中には、年給二百両を取る手代を何人も抱えている者もありましたが、二百両は千石取りの武士の年給に匹敵するほどです。士農工商身分制度はあるのですが、旗本も御家人も肩書きだけで、富は商人に集中していったわけです。旗本といえば、大藩の家老と雖も陪臣ですから、同じ座敷に座る事も出来ない身分ですが、偉いだけでは腹の足しにはなりません。


 勝海舟の家は、三河以来の御家人で宝暦二年(1752年)に旗本に昇格した名家ですが、禄高は百石程度で若い頃は相当な貧乏でした。家督を父小吉から継いだ頃は、持家を四両二分で売払い、同役の家の敷地を借りて住んでいたのですが、天井板は薪に使ってしまい一枚も無く、座敷も破れた畳が三畳ほどあっただけです。正月は餅を買う金も無く、親戚の家から貰ってきたこともありました。父小吉は才人ですが道楽三昧の人でしたから、百石の俸禄があっても、小吉の代から借金などで生活は苦しかったのではないでしょうか。

 さて、今回はこのくらいにして、次はこの貧乏な旗本・御家人と裕福な商人を、対比させて書こうと思います。次回も宜しく御願いします。
 


※1 「旗本八万騎」とよく云われますが、これは旗本や御家人の家来(陪臣)を合わせた数で、約八万人いたそうです。
※2 奥印金とは貸付ける金が札差に無い場合、他から借りて又貸しする事です。その為に更に手数料を取るのですが、実際には金持ちの札差に金が無いわけはなく、名目だけ借りてくることにして、手数料を上乗せしている場合が殆どです。


江戸の旗本事典 (講談社文庫)

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