福島左衛門大夫正則


「福島左衛門大夫正則」 東京国立博物館所蔵品



「酒は飲め飲め飲むならば 日の本一のこの槍を 飲み取るほどに飲むならば これぞまことの黒田武士」

 もう忘年会の時期ですが、年輩の方ならよく御存知の、宴会芸の定番「黒田節」の一節です。この歌は福岡藩黒田家の武将母里太兵衛が、酒の飲み競べに勝って、名槍「日本号」を手に入れた時に歌ったことで有名ですが、その飲み相手が、「賤ヶ岳七本槍」の福島左衛門大夫正則だったことは意外と知られていません。
正則は酒飲み友達の太兵衛に「わしに飲み勝ったらこの槍をやろう」と、つい弾みで自慢の「日本号」を賭けたのですが、正則が負けて酔い潰れた隙に、太兵衛はこの歌を吟じて、まんまとこの槍を持って帰ってしまいました。後悔した正則は、何度も返してくれるように頼みますが、「武士の約束」を盾に返してもらえませんでした。

 正則の酒に纏わる逸話は、枚挙にいとまがないのですが、もう一つ紹介します。
正則の酒飲み友達に、堀尾忠氏の老臣で松田左近という者がいました。忠氏が伏見に登城したときに、松田左近を今回召し連れてきたかと、正則が尋ねると、左近は病で療養中だと聞かされます。正則は退出すると、直ちに単騎で馬をとばして、大阪の左近の旅宿に見舞いに行きました。恐縮する左近に、正則が病の具合を尋ねると、病ではなく足を怪我しただけと答えます。正則は安心して、怪我なら酒は飲めるかと尋ねると、左近は飲めますと答えます。それでは飲もうということになり、左近は、小姓を呼び寄せ腰より銭を出し

「御前へ一杯、我等一杯、また御前へ一杯・・・」

と杯を数えて酒を買いに行かせようとすると、正則は扇を使って左近の手を押さえ

「怪我とはいえ、それほど飲んでは身体にさわる。今宵は椀に一杯ずつも飲めばちょうど良き程でござろう」

と言って、二椀分の酒を買ってこさせ、それをちびちびと飲みながら、一晩語り明かしたそうです。
 正則は酒に関する、余り評判の良くない話もあるのですが、他家の家来と身分を越えて懇意にしている、この二つの話を読む限りでは、ほのぼのとした人柄の良さも偲ばれます。


 福島正則は幼名市松といい、尾張の桶屋福島市兵衛正信が父、豊臣秀吉の父木下弥右衛門の妹を母とし、永禄四年(1561年)に生まれたと云う説が一般的ですが、定かではありません。秀吉もそうですが、この辺の人物の出自は、確かではないものが多いのです。しかし、この説に乗っていけば、出世頭の従兄弟秀吉を頼って、仕えたことになり辻褄が合います。市松が十四歳のとき、足軽某と喧嘩をして包丁で刺し殺し、
「なんだ、人を殺すなんてことは、武士しか出来ないと思ったが、大したことはない」
と思い武士になる決心をしたといいますから、時代が違うとはいえ乱暴な話です。

 天正十年(1582年)、正則は山崎の合戦で手柄を立てて、千石の知行を貰い、翌年の賤ヶ岳の戦いでの武功で、五千石を加増され、「賤ヶ岳七本槍」の名誉を得ました。七本槍の他の者が、三千石程度の加増だったのに対して、正則が五千石だったので、この辺が、秀吉の血縁者であったと思われている所以です。この戦いでは、勝家軍の剛勇の士拝郷五左衛門家嘉の首級を上げる手柄でした。翌天正十二年、二十三歳で従五位下左衛門尉に任官し、天正十五年には伊予国今治十一万石の大名になり、国分城を居城としました。
正則はこの後、肥後の宇土一揆平定、小田原城攻めや文禄・慶長の役で活躍し、文禄四年(1595年)には、生まれ故郷の尾張清洲二十四万石の城主になります。人を殺して、武士になると言って飛び出した桶屋の倅が、二十年後に大名になって帰ってきたのですから、親族も地元の者も大変驚いたことでしょう。

 慶長三年(1598年)八月十八日、豊臣秀吉大阪城崩御し、翌年閏三月には五大老の重鎮前田利家も亡くなると、天下の雲行きは俄に怪しくなってきました。慶長五年九月十五日、天下取りの野望を持つ徳川家康と、秀吉遺児を担いだ石田三成が天下の兵を二分して、関ヶ原の地で決戦を行います。福島正則は、文治派の三成と犬猿の仲ですから、家康の東軍を味方し、六千の兵で最前線に構えると、西軍主力の宇喜多秀家一万七千を相手に大激戦を演じます。戦いは小早川秀秋の兵一万五千が東軍に寝返り、西軍は敗退し、役後に正則は功績で、一躍安芸備後四十九万八千二百石の大大名にのし上がりました。


 「賤ヶ岳七本槍」の中で、一番出世をした福島正則でしたが、没落するのも最速でした。
元和二年(1616年)四月十七日、徳川家康駿府城で死去しますが、死の床の中で
「福島の家は、なんとしても潰さねばならない」
と言い残していました。大阪城が落城し、豊臣秀頼も死んだ今となっては、豊臣恩顧の大名の中で正則が一番の邪魔者になっていたのです。元和五年、正則は台風の水害で被害を受けた広島城を、武家諸法度に反して無断で修理をした罪を幕府から問われます。正則は事前に広島城改修の届けを幕府に出していたのですが、なかなか受理されませんでした。痺れを切らして幕府の重臣本多正純に、口頭で許可を得たのですが、これが反故となってしまいます。全て正則を陥れる策略でしたが、巨大な力を持った幕府に抵抗する術はなく、正則は諒として受け入れ、安芸・備後が没収、信濃国川中島郡中高井郡高井野、越後国魚沼郡、四万五千石に減封されました。元和六年、嫡男忠勝が早世したため、二万五千石を幕府に返上、寛永元年(1624年)、蟄居していた信濃高井郡高井野村で死去しました。享年六十四。嗣子がなくなると、福島家は外様大名改易の第一号となってしまい、おとなしく従った事で、その後立て続けに起こった外様大名改易に、大きな影響を及ぼしました。


正則が減封となって川中島へ移るとき、
「戦国の世では弓は重宝されるが、太平の世では川中島の土蔵に入れられてしまう」
と自虐的に語ったと伝えられています。
歴史は何度でも繰り返されます。劉邦漢帝国樹立に貢献した、三傑の一人韓信が残した言葉、
「狡兎死して良狗煮られる、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ」
と全く同じことを、福島正則は言ったのです。
正則は病死と幕府に届けられましたが、最近の研究では、悲憤して切腹したとの説が有力です。「賤ヶ岳七本槍」の中で正則は、豊臣秀吉に最も忠誠を尽くしていたのですが、「関ヶ原の役」で東軍に味方した事に因って、結果的には豊臣家を亡ぼす徳川家康の走狗とされてしまいました。

 一体、福島正則川中島で飲んだ酒は、どのような味だったのでしょうか。