平野遠江守長泰


 大和田原本藩初代藩主  平野長裕


 「賤ヶ岳七本槍」最初の一人は、平野遠江守長泰です。のっけから、資料が乏しく難しい題材に挑戦しますが、後に回しても楽になるわけではないので、一番目にしました。困難を後回しにしないのは、私のモットーですから。


 平野長泰の先祖は、諸説あるのですが、北条時政の流れの横井氏である説が有力です。時政から十四代目の横井宗長が、姉婿平野主水正業忠の尾張国平野村を所領して、平野姓を称したのが始まりです。業忠から数代後の、平野賢長入道万久は尾張国津島に住んでいましたが、織田信長に所領を奪われ諸国を流亡し、再び津島に戻り、公家の舟橋(清原)宣賢の子長治を養子にして、平野家を継がせました。長治は信長、秀吉に仕えていましたが、その子権平が後の平野長泰です。
 賤ヶ岳の戦いの時、権平長泰は弟長重、従兄弟の石河兵助と参戦しました。長泰は当時から、織田家中で剛勇を知られていましたが、身分は低く、足軽に毛が生えた程度であったと思います。賤ヶ岳の戦闘で長泰は、最初に柴田勝家軍の将佐久間政頼に槍を合わせますが仕留められず、尚も敗走する勝家軍を追走しました。すると敵軍の中に、信長に仕えていた頃から旧知の、小原新七を見つけます。小原は勝家軍の旗奉行をしていましたので、良き敵に巡り会えたと槍を合わせ、長泰が優勢に戦っていましたが、敵軍の中から松村友十郎と云う者が、名乗りを上げて横槍を入れてきました。長泰は怯まず、二人を相手に組み付いて、崖から転げ落ちると、小原新七の胸を突いて討取り、松村友十郎も肩を突いて倒しました。二人の首級を上げた長泰は、秀吉から

「秀吉眼前に於て、一番槍を合わせ、其の働き比類無く候条」

という感状と三千石の知行を貰い、七本槍の一人に加えられました。

平野長泰は、翌年四月の小牧長久手の戦いでも武功を上げ、文禄四年(1595年)には二千石を加増され、大和田原本で五千石を領することになりました。そして慶長三年(1598年)には、豊臣の姓を授かり、従五位下遠江守を叙任されます。


 しかし、長泰の出世はここでピタリと止まります。七本槍加藤清正福島正則加藤嘉明らが十万石以上の大大名と成る中で、長泰一人が取り残されてしまいました。原因は諸説あり、伝わっているほどの武功が無かった、性格が猛しいので秀吉に疎んじられたなどです。後者については「太閤記」の記述で次のようなものが有りました。

「この心猛く、秀吉卿に背くこと度々有しなり、これによりて領地少しとかや」

 
こんな話を読んだことがあります。
長泰は同じ七本槍の仲間の加藤嘉明と、幼い頃から仲が良く、嘉明の屋敷を訪ねていっても玄関から、「左馬助はおるか」と大声を掛けて、ずかずかと上がり込む間柄でした。
ある日いつものように嘉明の屋敷で話をしている時、ふと以前に長泰が取り立てて、中間から侍になった某と云う者のが、嘉明の元に仕えていることを思い出し、嘉明に尋ねます。

「そういえば、あの某にいくら知行をやっているのだ。二百石か三百石か」
「いや、もっと上だ」
「それでは千石か」
「いや、もっとだ」
「では二千石」
「いや」
「えい、では五千石もやってるというのか」
「そのとおりだ」

嘉明は無言で下を向いてしまいました。長泰は言葉を失い、そのまま黙って外へ出てしまいました。
自分の紹介で侍になった小物が、自分と同じ五千石になっていることに、呆然としたのです。また「自分は七本槍の他の者に、遅れを取るような働きではない」と忸怩たる思いもあったのでしょう。しかしこの時、加藤嘉明は十万石の伊予松山城主で、遥かに仰ぎ見る存在になっていました。


 慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで、平野長泰徳川家康の東軍に味方しました。長泰も武辺者ですから、石田三成とは折り合いが悪かったと思います。しかし、働きを記録した史料は何もありません。役後の論功行賞でも、加藤清正福島正則が大封を得たのに比べ、本領の大和田原本五千石を安堵されただけですから、大した活躍が無かったようです。慶長十九年の大阪の役では、豊臣姓まで与えられている長泰を警戒して、江戸で留守居役を命ぜられ、大阪城落城後にやっと国に帰ることが許されました。
 徳川の治世になると、長泰は駿府城近くの安西に屋敷を与えられ、家康の安西衆(御伽衆)の一人となり、家康の死後も二代将軍秀忠の御伽衆を勤めました。長泰は寛永五年(1628年)五月七日、安西の地で、七十歳の天寿を全うしました。


 平野家はその後も存続して、五千石の交代与力として幕末まで続きます。交代与力とは旗本と異なり、諸大名並の待遇を受けますが、一万石以下で参勤交代の義務がある分、同録の旗本より経営は大変だったと思います。
慶応四年(1868年)七月、当代平野長裕のときに、実収入一万一石八斗となり、田原本藩が成立したので、初代長泰が大和田原本五千石を拝領してから二百七十二年後に、待望の大名になることが出来ました。
しかし、それもつかの間の名誉です。明治四年(1871年)、廃藩置県で廃藩となると、田原本奈良県編入され消滅し、三年間の大名で終わってしまいました。


 豊臣秀吉の天下取りを助けた英雄「賤ヶ岳七本槍」の一人、平野長泰は出世は出来ませんでしたが、高禄を羨んだ福島正則加藤清正加藤嘉明は、とうの昔に改易となり、家名はありません。長泰は、家名を永らえた意味で幸運ですから、満足すべきかもしれません。