賤ヶ岳七本槍


     岐阜城



 今回から時を戻して、戦国時代をテーマに書いていきますが、戦国時代復帰第一弾は「賤ヶ岳七本槍」です。
これを選んだ理由は、とりあえず七回分が決まってしまうので、何を書こうか悩まないで済むと思った、安易な考えからです。しかし簡単ではありません。福島正則加藤清正は有名で、逸話も沢山有るので楽ですが、平野長泰あたりは資料も少なく、小説などでも取り上げた物が少ないので、書ききれるかどうか少々心配です。まだ資料も全然揃っていませんが、挫折しないように頑張って、連載しようと思っていますのでよろしくお願いします。
まずは最初に「賤ヶ岳の戦い」を、簡単におさらいしてみましょう。


 天正十年(1582年)六月二日、本能寺の変で、織田信長明智光秀の裏切りで横死して、光秀も山崎の戦い羽柴秀吉に破れると、天下の権の行方は信長の重臣達に握られることになりました。重臣一番手は柴田勝家、二番手は丹羽長秀、次の明智光秀は死にましたので、三番手は羽柴秀吉となります。しかしこの時点では、主君の敵討ちをした功で、秀吉と勝家の地位が拮抗していました。天下の権と云っても、信長の遺児達が居ますので、重臣達のものではないのですが、それはあくまで建前論で、実質的な権力は、多くの配下と戦さの経験が豊富な重臣が持っていました。
 跡目相続を決める清洲城の会議で、信長の次男信孝を推した柴田勝家は、本能寺の変で死んだ長男信忠の子・三法師を推した羽柴秀吉に敗れます。これは秀吉が事前に、丹羽長秀池田恒興などの有力者を、調略しておいた事が勝因でした。勝家は太閤記などで描かれている以上に、優秀で勇猛な武将ですが、外交戦や調略戦では秀吉に一歩も二歩も遅れをとります。本能寺の変に際しても、勝家は上杉景勝越中国魚津城を攻撃中で動けなかったのですが、毛利輝元といち早く講和をして、「中国大返し」を実現した秀吉に先を越され、光秀軍を撃破されてしまったのですから、油揚げをさらわれる格好になっていました。
 清洲会議の成功で、織田家中随一の権力者になった秀吉は、大規模な信長の葬儀を行いました。名目上は信長の四男で、秀吉の養子羽柴秀勝が喪主でしたが、誰の目から見ても、秀吉が権力を継承したことのアピールであることは明らかです。これに対して劣勢の勝家が、力で逆転を考えたのは当然のことですが、結果を見てから思うと、どうも秀吉が誘った罠に自ら飛び込んでしまったようです。


 天正十年十二月七日、羽柴秀吉柴田勝家の拠点越前が、雪に閉ざされるのを待って、勝家の甥の柴田勝豊が守る長浜城を包囲します。勝豊はかねてより叔父勝家と折り合いが悪かったので、秀吉の降伏勧告にあさっりと応じ、長浜城を開城してしまいます。また勝家に呼応して立ち上がった、美濃岐阜城織田信孝も、氏家直通、稲葉一鉄ら美濃衆が秀吉の旗下に加わると、かなわぬとみて和を乞い、生母坂氏を人質に差し出し降伏しました。あくる天正十一年一月二十三日、勝家の旗下の滝川一益が伊勢で挙兵すると、秀吉は七万の兵で伊勢に侵入し、峯城、亀山城と攻略、一益の本拠長島城を攻撃します。

 雪に閉ざされていた勝家は、歯が噛みして待っていましたが、遂に同年三月九日、佐久間盛政らを前衛にした、三万の軍勢を率いて越前北庄城を出陣、近江柳ヶ瀬に布陣しました。この報告を聞いた秀吉は、織田信雄に後を託して伊勢の発ち、五万の兵を率いて木之本に到着し、勝家と対峙します。秀吉の布陣内容は、堀秀政が左称山、中川清秀が大岩山、高山重友(右近)が岩崎山、桑名重晴が賤ヶ岳の各砦、弟羽柴秀長を田上山に配置して統括させ、蜂須賀小六、生駒政勝、黒田官兵衛らを遊軍に据え、秀吉は総大将として長浜城に陣しました。その後、小競り合いは起こりますが、双方が牽制をし合って、本格的な戦闘には至りません。
 そうこうしている内の四月十七日、美濃方面が手薄になったのを見て、岐阜城の信孝が滝川一益と再度挙兵しました。鎮圧の為に秀吉は二万の兵を率いて、長浜城を出て美濃へ進軍しますが、揖斐川の氾濫で足止めされ、仕方なく大垣城に入りました。しかし結果としては、この足止めが秀吉に幸運をもたらします。秀吉が美濃に進軍したことを知った、勝家の甥で猛将の佐久間盛政は、大岩山の攻撃を進言します。膠着状態では、先に動いた方が負けるジンクスがあるので、勝家も躊躇しますが、盛政に押し切られる形で攻撃を許可してしまいます。四月二十日午前二時頃、盛政は一万五千の兵で大岩山砦を攻撃、午前十時頃に陥落させ中川清秀を討取ると、続いて岩崎山の高山重友を攻めて敗走させました。
 大岩山の陥落を秀吉が知ったのは、同日の午後三時過ぎでしたが、直ぐに大垣城を出陣し、大垣から木之本間十三里(52キロ)を、僅か五時間の驚異的な早さで移動して、午後九時には木之本に着陣しました。大岩山にいる盛政軍は、勝家から再三の撤退命令を無視して滞陣をしていましたが、秀吉の想像を超えた早い帰陣を知り、同夜慌てて撤退を始めます。しかし時既に遅く、盛政の軍は秀吉の大軍に急襲され、盛政を救援に来た柴田勝政の軍も加わると、火の出るような大激戦となりました。この段階ではまだ互角の形勢でしたが、茂山に布陣していた、勝家側の前田利家が突如退却を始めると、不破勝光、金森長近が相次いで戦線を離脱します。この三人は既に秀吉に調略されていたのですが、これを契機に勝家軍は劣勢となり、盛政軍、勝政軍も撃破されて、秀吉の大軍は勝家の本陣に殺到しました。もはや勝家軍には支えきる力は無く、北庄城に撤退をしますが、退却戦でも多数の将兵を失い、逃げ込んだ城は秀吉の大軍に包囲されて、勝家は自ら城に火を掛けて、燃え盛る天守閣で妻お市の方とともに自刃しました。
この戦いに勝った事で、羽柴秀吉は信長の唯一の後継者になると同時に、天下取りの道が開けてきました。


この賤ヶ岳の合戦で活躍した、秀吉恩顧の武将が「賤ヶ岳七本槍」です。

福島左衛門大夫正則
脇坂中務少輔安治
加藤左馬助嘉明
片桐東市正且元
加藤肥後守清正
平野遠江守長泰
糟屋助右衛門武則

実際は、他にも同様の活躍で恩賞を受けた者が居たのですが、今川義元織田信秀が戦った時の「小豆坂七本槍」の故事に因み、語呂も良かったので「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになりました。秀吉は卑賤の身から立身出世し、先祖代々の家臣が居ませんから、この子飼いの武将達の活躍を宣伝することで、自分の名声を高めようとしました。また秀吉は、七人とも身近に置いていた小姓ですし、可愛がってもいましたから、名誉を与えることで、これから自分の家を支えて貰いたいと思ったでしょう。


 さて、次回からこの七人を、一人ずつ紹介をしていきます。
しかし、子飼いの武将「賤ヶ岳七本槍」ですが、人の心を読む達人秀吉も、まさか自分の死後、天下分け目の「関ヶ原の戦い」で、豊臣方に味方したのが七人中一人だけだったとは、この時は思いも寄らなかったでしょう。