脇坂中務少輔安治


  「赤井悪右衛門討死の図」絵本太功記



「貂(てん)の尾を 輪違いに振る 関ヶ原

 江戸時代初頭、こんな川柳が流行りました。「貂」の皮は旗指物、「輪違い」は家紋、ともに脇坂安治の物ですが、関ヶ原の戦い小早川秀秋の裏切りに呼応して、さっきまで味方だった、大谷刑部隊を攻撃したことを皮肉って作られたのです。逆向きに振った「貂」の皮の采配を尻尾に見立て、家紋の「輪違い」に引っかけるところなどは、なかなか秀逸な出来と思います。脇坂家の貂の皮は、よほど有名なのでしょうか、徳川十一代将軍家斉の頃、安治の子孫脇坂安薫は、寺社奉行として辣腕を奮い、「谷中延命院一件」などを裁定しましたが、そのときにもこんな川柳が流行りました。

「また出たと 坊主びっくり 貂の皮」


 脇坂家の「貂の皮」の由来を説明しましょう。
天正六年二月、丹波攻略で苦戦をしていた、明智光秀の元に、応援の為三百の兵を率いて甚内(当時脇坂安治は、甚内と呼ばれていました)は出陣しました。そのとき丹波黒井城主は、丹波の赤鬼と云われた、猛将赤井悪右衛門直正ですが、この時は背中に疔(化膿してできる腫れ物)を患い重病でした。甚内は単身黒井城に乗り込み、悪右衛門に降伏を勧告しました。悪右衛門は拒否しますが、甚内の勇気を称えて、代々伝わる貂の皮の槍鞘を与えました。甚内がこの貂の皮は雄かと尋ねると、悪右衛門はそうだと言います。雌はどこにと甚内が尋ねると、
「雌の貂はまだわしの背に居る。もし欲しくば、明日卯の刻、槍先で取ってみることだ」
悪右衛門はこう答えました。降伏はしないから、明日の戦いに勝って、自分の力で奪い捕ってみろと言っているのです。
翌早朝、甚内は手勢三百を率いて、黒井城を攻めました。城方も五百ばかり押し出して、大激戦となりますが、甚内は脇目も振らずに、貂の皮の指物を背負って、悪右衛門一人を目指し突進します。悪右衛門が甚内に遭遇すると
「やあ、約束を違えずきたか」
と嬉しそうに微笑み、槍を合わせました。猛将と云われた悪右衛門でしたが、病を負っていては力が出せず、押され気味になって組み伏せられると、背中の疔が破れて夥しく出血しました。甚内はその機を逃さず、悪右衛門の首級を上げると、「悪右衛門討ち取ったり」と叫び、主人が討たれたと知った赤井勢は崩れて敗走しました。
 それ以来、甚内は雄雌の貂の皮二本を、旗指物として数多の戦陣を駆け巡りました。


 脇坂甚内安治は、天文二十三年(1554年)近江浅井郡脇坂庄の生まれです。父安明は小谷城浅井長政の家臣で、長政が織田信長と、六角承禎の箕作城を攻めたとき戦死しました。十五歳の甚内も従軍していましたが、信長旗下の武将木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)に拾われ家来になります。元亀元年(1570年)、近江横山城から石山本願寺攻めに出陣する秀吉は、年少の者は城に残れと命じますが、十六歳の甚内は命令に背き、兵に紛れ込んで大坂に向かいました。途中で甚内が居ることことに気付いた秀吉は咎めずに、
「甚内、その志忘れまいぞ」
と言って、馬を一頭与えました。甚内はその時から、騎馬武者になっています。私は前に、「賤ヶ岳七本槍」は皆、秀吉の小姓と書きましたが、加藤清正福島正則らより、かなり年輩の甚内は小姓ではなく、秀吉に近従して居たので、七本槍に加わったのではないかと推察しています。

 天正十一年(1583年)賤ヶ岳の合戦で甚内は武功を上げて、七本槍の一人に加わりますが、具体的な活躍の内容は記録がありません。しかし他の者と同じに、感状と三千石の録を与えられましたので、それなりの手柄はあったと思います。甚内は三百石の小録から、三千三百石になり、五百人の鉄砲足軽を預けられ、美濃大垣城の城番となりました。

甚内が大垣城の城番の時に、こんな事件があります。
織田信雄(信長の次男)が徳川家康と組んで、秀吉に叛旗を翻しましたが、信雄の家老滝川雄利の嫡子奇童丸は、大垣城に人質となっています。雄利は一計を案じ、清洲城から大垣城に馬を走らせ陣内に面会すると、母親が重病で一目息子に会いたがっているので、一夜だけ帰してくれないかと頼みました。雄利は甚内から見れば、主筋の家老ですし、同情もしたのでしょう、あっさり奇童丸を引き渡してしまいました。
翌日清洲城で、織田信雄が秀吉に宣戦布告をしたので、さあ大変です。秀吉は甚内に
「甚内、われは三介殿(信雄のこと)に内通しおったな」
と激怒しました。甚内は平伏し、必ず取り戻しますと言い様に、与力二十騎のみを率い、雄利の居城伊賀上野城に跳んで行きました。
「あいつは、あの人数で上野城を攻める気か・・・」
と怒っていた秀吉も、さすがにあきれ顔で見送ります。
しかし、甚内には奇計がありました。伊賀国に入ると野武士のような伊賀の郷士に、恩賞を出すと言って掻き集め、百姓には篝火を持たせ、三方から上野城を囲みます。そして、秀吉が十万の兵を率いて攻めてくると流言を放つと、すっかり騙された雄利は搦手から抜け出し、伊勢路に逃れてしまいました。甚内は上野城を占領し、城に「貂の皮」の馬標を押し立て、秀吉に上野城陥落の報告すると
「さすがは甚内、七本槍の勇士だけのことはある」
と、秀吉はすっかり怒りを忘れて激賞しました。
甚内はこの功で伊賀国を与えられると、その後何度か転封して、天正十三年、淡路国三万石洲本城の城主となり、従五位下中務少輔に任官しました。そしてこの頃に、甚内から安治と改名したようです。


 さて、脇坂安治に関しては、意外と面白い話があったので、今回の「枠」をかなり使ってしまいましたが、これより後の安治は、余りパッとした活躍はありませんでした。
 文禄・慶長の役では、加藤清正に引けを取らない程、相当の活躍をしましたが、褒めてくれる秀吉が死んでしまっては骨折り損です。関ヶ原の戦いは、最初から家康に味方をする旨の書状を送ってあったのですが、大坂に対陣していたので東軍に合流できず、渋々西軍と行動を共にしました。戦場で身動きが取れずにいるところ、小早川秀秋の裏切ったので呼応して、大谷刑部隊を攻めましたが、揚げ句の果てには「輪違いに振る」と冷やかされる始末です。関ヶ原の後、二万石を加増されて、五万三千石の伊予松山城主をなりましたが、加藤清正福島正則が大封を得たのに比べれば、十分の一程度の拝領でした。大坂の役では東西どちらにも組みせず、元和三年(1617年)には禄高そのままに、信濃国伊奈郡飯田に国替えを命ぜられ、それを機に嫡男安元に家督を譲って京都西洞院に隠棲しました。
寛永三年(1626年)八月六日、安治は七十三歳の天寿を全うしました。


「北南それとも知らずこの糸の ゆかりばかりの末の藤原」

 三代将軍家光の治世に「寛永諸家系図伝」が編纂され、諸大名は家系図を提出しましたが、脇坂家は安治の父から稿を起こし、冒頭にこの和歌をしたためました。「藤原の末と言ってはいますが、はっきりと分かるのは安明、安治、安元の三代だけで、それ以前はどこの馬の骨か分かりません」と云った意味です。正直に申告した事と、当意即妙の和歌を見た家光は、文武両道に長けていると賞したそうです。
 脇坂家はその後、播州龍野藩主に転封して、禄高はそのままで明治維新を向かえます。家名は永らえましたが、安治の血筋は、嫡男安元に子が無く、老中堀田正盛の子を養子に迎えて継がせましたので、三代で途絶えました。
結局、将軍家光に提出した家系図の三代のみが、脇坂安治の血脈です。