生類憐みの令


   徳川綱吉


 「天下の悪法」と言われました。
徳川五代将軍綱吉の治世で行われた生類憐みの法令のことですが、綱吉の評価と共に、最近は見直されようとしています。

よく知られているこの法令の成り立ちですが、綱吉に世継ぎが出来ないことを心配した母桂昌院は、絶大の信頼をおいていた護持院隆光に相談したところ、子が出来ないのは前世で行った殺生が原因なので、特に戌年生まれの将軍は犬を大切にするようにと進言されました。桂昌院は隆光に深く帰依していましたので、早速綱吉に提案すると迷わず従い法令化したそうです。以後、飼犬に限らず野犬に至るまで傷をつけたり、殺したりすれば、厳しい処罰が待っています。庇護するものは犬のみならず、馬・猿・鳥類・虫にまで及び、それぞを法令化して取り締まり、庶民は野犬が子供を咬んでも追い払うことができず、食料の為に鳥獣を捕ることもできず大変苦しんだそうです。時代劇では、立派な駕籠に乗った犬を庶民が土下座している様子が描かれているものもあります。
また大手出版社の大学受験の参考書にも
「特に犬を殺傷したものは厳罰に処すという悪法と化し、民衆生活に重大な悪影響をおよぼした。」
という内容で記載されています。

 さて、以上が一般的に知られている「生類憐みの令」ですが、近年の研究では、これが相当に誇張されているのではないかと言われています。そもそも成り立ちから疑問で、この法令が出た貞享四年(1687年)には、まだ隆光は和州長谷寺の住持で、江戸に召し出されていないというのです。アリバイが本当で、隆光の発案でないなら、何を根拠にこの法令が発せられたのでしょうか。


 徳川綱吉は篤学の人物でした。幼い頃から桂昌院に学問を勧められ、その教えを守り、将軍になってからは諸大名に経書の講義をするまでになります。特に孝道を儒教から学び、多いに感化され、桂昌院への孝行ぶりは大変有名です。「上の好む所下これよりも甚だし」ですから、諸大名、諸旗本も武芸はそっちのけで勉強をするようになりました。それに因って林信篤をはじめ、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠などの高名な儒学者を大量発生し隆盛を極めます。

 そもそも綱吉が考える生類を憐れむ心は、儒教の仁愛、慈愛の精神に基づいています。この法令も犬や動物ばかりが有名ですが、実際には社会的弱者や貧者を保護することが目的でした。その内容の一部には次のようなものです。


「一、捨子これ有り候ハゝ、早速届くるに及ばず。其所の者いたハリ置き、直ニ養候か、又ハ望の者これ有り候ハゝ、遣すべく候。急度付届に及ばず候事」
「御当家令条」巻三十三  貞享四年

訳:捨て子は見つけても直ぐに届けないでもよい。そこに居た者が自ら養うか、望む者は養子とせよ。よいか、重ねて申し付けるぞ。


当時は捨子が大変問題になっていたので、捨子や子殺しを防止するために、妊婦と七歳以下の子供を登録させました。また乞食や流民についても、役人が保護する義務を規定したともあります。この令状の最後にはこうもありました。


「一、犬ばかりに限らず惣じて生類、人々慈悲の心を本といたし、あはれみ候儀肝要の事」
訳:犬ばかりでは無く、人々は全ての生類へ慈悲の心で憐れみをほどこすことが必要である。


綱吉の仁愛の精神はお解りになると思います。それでは何故、これほど評判が悪くなったのでしょうか。幾つかの原因が考えられますので三つ書きます。

一、これだけの法令を取り締まるためには、役人たちの仕事を増やさなければならないので、それを快く思わない者が悪評を流した。
一、将軍の権力が強大だったため、迎合した役人たちが拡大解釈をして違反者を厳しく罰しすぎた。
一、将軍近習の権力争いの争点に利用された。

 伝わっている違反者の厳しい刑罰ですが、些細な事で島流しや追放になった、切腹させられたりとあるのですが、実はこれらの者たちは皆、反逆罪的な意味合いで処罰されており、庶民が生類憐みの令で厳罰に処された事例は、意外なほど少ないとされています。現代でも、良い法令の解釈を変えると悪法になるものもありますし、役人が自分の都合で法令を骨抜きにしてしまう場合もあります。
 
 大坂の役で豊臣家が滅んで七十二年、島原の乱が終わって四十九年。太平の世となり学問は盛んで、文化芸能も現代に伝わるものはほとんどこの頃に出来ています。悪法で暗黒政治が行われる最中に、これほど庶民が豊かに暮らしていたとも思えません。綱吉は武士が日常的に人殺しをする野蛮な時代から、日本を近代文明社会に導く担い手になろうとしたのかもしれません。実際にこの時期、身勝手な武士の「切り捨て御免」は無くなり、幕府は「耳削ぎ」「鼻削ぎ」など残酷な刑罰も禁止しました。私もあらためて、歴史上の人物を先入観で見てしまうと、意外な本質は見えなくなるものだと感じました。

 現代の私たちが「今日は寒いから、晩飯は犬鍋にしよう」とならないのも、徳川綱吉のお陰ということでしょう。



ケンペルと徳川綱吉―ドイツ人医師と将軍との交流 (中公新書)

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