「言葉」で綴る 西郷隆盛


        西郷隆盛


 前回、坂本龍馬の事を書きましたが、今回は西郷隆盛にしようと思います。
表題に付けた「言葉」とは、西郷自身や周りの人が話した「台詞」とでも言えばいいのでしょうか、西郷の人と成りが顕れているものを探してみました。西郷の経歴や活躍を、改めて書いていく必要も無いと思いましたので、このようにしましたが、「台詞」といっても、古書にあった比較的信憑性の高そうな物もあれば、小説家の創作かもしれない物もあり、ごちゃ混ぜですがどうぞお許し下さい。

 前回私は、坂本龍馬の事があまり好きではないと書いたのですが、西郷隆盛は好きです。龍馬が好きではないのと同じで、理由を説明するのは難しいのですが、龍馬を「生理的」に好きではないと書いたので、西郷は「本能的」に好きとでもしておきます。
私の好きな作家、海音寺潮五郎氏は多くの史伝を書いていますが、人物評は大変客観的で、時には厳しくその人物を批評することもあります。多分それは、氏がその著書にも書いているように、幼少の頃から愛読していた司馬遷の「史記」、とりわけその中の「列伝」に大きな影響を受けているからかもしれません。
しかし、そんな海音寺潮五郎氏ですが、こと西郷隆盛の評価については、私が「客観的」に見ても大甘です。「非の打ち所が全くない人物」と言われてしまうと、確かにそれまでですが、鹿児島県の伊佐郡大口村出身で、確かご先祖は薩摩の郷士だったと記憶してますので、その事が影響していると思います。出身地の大口村(現在の大口市)は西南戦争の激戦地で、戦争を生き残った村の古老達に、幼い頃から西郷の話を聞かされたと著書にも書いておられました。


「私が西郷の伝記を書こうと思い立ったのは、私が西郷が好きだからです。理由を言い立てればいくらもありますが、詮ずるところは、好きだからというに尽きます。好きで好きでたまらないから、その好きであるところを、世間の人々に知ってもらいたいと思い立ったという次第です。」

海音寺潮五郎氏が、朝日新聞社刊「西郷隆盛」の第一巻あとがきに書かれていた文章です。なるほど結局人が人を好きになることに、理由をあれこれ付ける必要はないと分かりましたので、私が西郷を好きな理由も氏と全く同様な訳です。

 さて、それでも西郷隆盛が多くの人々に愛される理由を考えると、私自身が色々な書物から感じるのは、魅力と云う言葉では足らない、一種の人を引きつける「磁力」があるからのような気がします。


 西南戦争の頃、九州各県から薩摩軍の元へ、多くの士族隊が応援に来ていましたが、その中の中津隊に増田宗太郎という隊長がいました。戦争末期、和田峠の戦いに薩摩軍が敗れると、西郷ももはやこれまでと思ったのか、各士族隊の解隊を命じますが、増田は受け入れませんでした。中津隊の隊士が増田に一緒に帰郷するよう説得すると、増田はこんな「台詞」を言ったそうです。

「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」

記録の原文ですが、意訳すると「君たちは西郷に会ったことが無いから分からないのだ。西郷と親しくなったのは最近だが、この人に一度接してしまうと良い悪いの問題ではなく、生死を共にするしかなくなるだ」という意味です。増田の他にも中津隊の十数名が、城山陥落まで西郷と行動を共にして全員戦死しました。
 余談ですが、増田宗太郎は中津藩の士族出身で、福沢諭吉とは再従兄弟の間柄です。慶應義塾で洋学を学んだ後、明治七年、江藤新平佐賀の乱にも兵を率いて参加しようとしましたが、決起が遅く間に合わなかった経緯があります。

 増田宗太郎の事例は特別ですが、西南戦争であれだけ多くの士族が、西郷に付き従ったのは、他の士族の乱とは違い、西郷の人を引きつける「大磁石」的なものが要因だと私は考えています。と言うのも、西郷と士族達とは主従関係ではなく、封建社会でみると単なる上司と部下の関係に過ぎません。儒教的忠義の概念は常に武士の心の中にありますが、現実的には殿様が家来に知行を与え、生活を保護するので見返りに忠誠を誓うわけで、西郷は殿様ではありませんのでこれに当てはまりません。確かに明治新政府に対して、士族達が反感を持っていましたから、西郷を首領として決起したのが理由と反論される方もいるかと思いますが、私はどうしてもそれだけの理由で、あれだけの大部隊が従ったとは思えないのです。やはり西郷隆盛という人間に秘密がある気がしてなりませんので、もう少し探ってみようと思います。


 西郷は、誠実で礼儀正しく威厳があったと言われていますが、反面、よく冗談を言って人を笑わせる明るい性質も持ち合わせています。
「夜這(よべ)ごとある」
西南戦争も終盤、宮崎県の北端にある可愛岳で戦闘して追い詰められ、夜間密かに脱出しようと這い蹲って進軍している時に、西郷が漏らした言葉です。「まるで夜這いに行くみたいだ」と云った意味ですが、周りの隊士達は声を上げられず、笑いをかみ殺していたそうです。とても冗談を言えるような状況ではないのですが、隊士たちの極度の緊張を解こうして思わず出たのか、ある意味では西郷得意の「自虐ギャグ」的なものです。同じ様な「台詞」が他にもあります。
「勤王道楽のなれの果てで、こういう事になりも申した」
時代は随分と遡りますが、文久年間「寺田屋事件」以前、西郷が島津久光の怒りに触れて、大阪で謹慎している時に、心配をして訪ねてきた薩摩藩留守居・本田弥右衛門話に、呵々と笑いながら話したそうです。
「勤王道楽」とは、吉田松陰が聞いたら烈火の如く怒りそうですが、西郷は決して勤王精神を馬鹿にしているわけではありません。勤王の志は人に倍してある西郷ですが、思うように事が運ばない現状を嘆いて、「自虐的」に話しているわけです。私は鹿児島生まれではないのでよく分からないのですが、これが薩摩人独特の明るさとユーモアセンスなのでしょうか。しかし他の薩摩人からこのような「台詞」は、あまり聞いたことがありません。
この西郷の「台詞」を聞くと、確かに「愛すべきキャラクター」ではありますが、これではまだまだ生き死にを共にするほど、敬愛するとは思えません。

 謎は深いですし、長くもなってしまったので、今回はここまでにして、次回も引き続き「言葉」を探して、西郷隆盛の探求をしたいと思います。