続「言葉」で綴る 西郷隆盛


   「西郷隆盛像」 鹿児島市城山町



「三郎様は地五郎(じごろ)でごわす」

西郷隆盛島津久光に向かって言った「台詞」でが、「地五郎」とは「田舎者」といった意味です。
西郷は「安政の大獄」のとき、幕吏の目を欺く為に奄美大島に潜伏していましが、「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺され、時勢が急変すると藩父久光の前に召し出されました。この時期、久光は順聖院(島津斉彬)の遺志を継いで、引兵上洛しようとしていたのですが、意見を聞かれた西郷がこのように答えたのです。斉彬と違い久光は官位も低く、諸侯の尊敬も薄いので同じ事をやろうとしても、うまく出来ませんといった意味が込められています。これが久光の勘気に触れて、その後紆余曲折あったのですが、徳之島に島流しになりました。
 大変有名な「台詞」なので、大河ドラマ篤姫」でもこのシーン(私は見ていないのですが)があったようですし、小説では司馬遼太郎海音寺潮五郎も取り上げていますが、私はちょっと見方が違います。いくら西郷が久光を憎んでいたとはいえ、一時の「快」の為に、直接こんな事を言うとは信じられません。久光の側近にふと言ってしまったことが、間接的に伝わったのが真実だと思います。西郷と久光は生涯折り合わなかったのですが、藩主や藩に対しての忠義を無くすことはありませんでした。確かに廃藩置県を実施して、藩の支配権を失わせましたが、政治的な問題と道徳的な問題は別にあります。西郷は維新後、勲功で正三位を叙するところでしたが、藩主忠義が従三位だったので、上位に就くことはできないと再三再四辞退して遂にそれを貫徹しました。


「児孫のために美田を買わず」

「南洲翁遺訓」にあるのですが、今や諺辞典に載るほど有名な言葉です。原文は漢詩になっていますので、全文を記載します。

幾か辛酸を歴て志始めて堅し  丈夫玉砕甎全を愧ず
一家の遺事人知るや否や  児孫のために美田を買わず

 西郷は明治新政府で参議となりましたが、他の者が美衣を纏い豪奢な邸宅に住み、馬車に乗って出仕するところ、西郷は粗末な服装で従者一人を連れテクテク歩いて出仕しました。
ある時宮中の会議が終わり、西郷が帰ろうとしたところ履き物が無く、仕方がないのでそのままハダシで出ていったのですが、門衛が疑って門を通してくれませんでした。そこへ岩倉具視が馬車で近づいて来たので、門衛は西郷を叱りつけて控えさせると、西郷は文句もいわず腰をかがめていました。岩倉がふと見ると西郷が門衛のうしろで、雨にぬれて立っているので、岩倉が訝って訳を聞き「この人は本当の西郷参議である」と門衛を戒め、馬車に乗せて立ち去りました。門衛は茫然自失として立ち竦んでいたそうです。


「南洲翁遺訓」にはまだまだ名言があります。

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」

この遺訓と対になってよく語られているのが下記です。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

これは江戸城無血開城の交渉に来た、山岡鉄舟を称して言ったようです。


「事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず」

「功ある人には禄を与え、徳ある人には地位を与えよ」


 そして最後に、私の好きな、西郷隆盛の生き方を現した言葉「敬天愛人」です。

「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」


 西郷は天を敬い、人を愛する清廉、誠実で仁愛の心を持ち、私欲は持たず、公の尽くすことを生涯を通して貫きました。美辞麗句を並べていても、行動がともなわないのでは説得力はありませんが、西郷の言葉と行動は「知行合一」に徹しています。「南洲翁遺訓」に残している「言葉」改めてを読み、人の「言葉」の力強さを身に染みて感じた次第です。


西郷隆盛 第一巻

西郷隆盛 第一巻