泉州堺事件と切腹 その壱


  「堺事件」 Le Monde Illustr
 
 外国人が日本の「武士」を想像するとき、髷を結って刀を差してと云った姿と同時に、「腹切り」(harakiri)を思い浮かべるでしょう。人によっては残酷でグロテスクな行為と考えるでしょうし、中には理解し難い武士の精神性に、畏敬の念を覚える人もいるかもしれません。外国人が最初に日本人の切腹を目撃したのがいつかは解りませんが、多分安土桃山時代に来日した人物でしょう。しかし「腹切り」(harakiri)の文字がそのまま英語になり、辞書に載るほど有名になったのは、この「泉州堺事件」ではないでしょうか。


 慶応四年(1868年)二月十五日、鳥羽伏見の戦いに官軍が勝ち、徳川慶喜はじめ幕府の役人は江戸に逃げ帰った後、泉州堺は治安が悪化し土佐藩が警護していました。折しも天保山沖に投錨していたフランス軍デュプレクス号は、艦長プティ・トゥアールの書簡で兵士の堺上陸を要請していましたが、外国事務係の宇和島藩伊達宗城の許可が必要です。戦後間も無いので混乱もしていますし、言葉の壁もありますので、うまく伝わらなかったのでしょう、フランス兵は無断で上陸してしまいました。警護の土佐藩士は現場に急行して、身振り手振りで戻るように促しますが伝わらず、逆に土佐藩士達を愚弄する態度に出ます。フランス兵は土佐藩の隊旗を奪おうしたので、ここに至って堪忍袋の緒が切れ、土佐藩士は発砲しました。フランス兵は逃亡しようとしますが、撃たれたり海に落ちて溺死したりと、11人が死亡しました。
 
 二月十九日、フランス公使レオン・ロッシュは、在日各国大使と共に、犯人の処罰と謝罪、賠償金の支払いを求めた抗議文を明治政府に提出して、明治政府は全面的に主張を受け入れました。と言うか、受け入れざる得なかったとのです。当時は国内も平定していませんし、歴然とした国力の差の前では抵抗することは出来ません。土佐藩士達は堺警護の任務を忠実に果たし、発砲も隊長の命令で行ったのですから兵士としては当然ですが、まさに断腸の思いで六番隊隊長箕浦猪之吉、八番隊隊長西村左平次以下二十名が籤(くじ)で処刑者に決まりました。
 二月二十三日、堺の妙国寺土佐藩士の処刑が行われる事にり、フランス側も公使ロッシュ、艦長トゥアール以下将校達も立ち会いましたが、衝撃的なシーンを目撃することになります。
まず最初の処刑者、箕浦猪之吉が大音声で叫びました。

「フランス人共聴け。己は汝等のためには死なぬ。国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」 森鴎外 「堺事件」より

猪之吉は衣服をくつろげ、世話役の出した四方を引き寄せ短刀を逆手に取ると、左の脇腹へ深く突き立て三寸切り下げ、右へ引き廻して又三寸切り上げました。世に言う「十文字腹」です。続いて短刀を投げ出すと、腹に手を入れて臓腑を掴み出し(内臓を投げつけたと書いてある物もありますが、流石にそれは医学的に無理)、鬼神の形相でフランス人を睨みつけたところで、介錯人の馬場桃太郎が一太刀を首に当てます。馬場も臆したのか打ち損じると

「馬場君。どうした。静かに遣れ」

と猪之吉は叫び、三度目にようやく首を落としました。猪之吉行年二十五。西村左平次がそれに続き割腹。佐平次行年二十四。
その後次々と行われる「腹切り」を見ていたフランス人は嘔吐する者、気を失う者が続出して、十二人目の橋詰愛平が短刀に手を掛けたところで、見るに見かねたのかロッシュ(トゥアールという説有り)が外国局判事五代才助に処刑の中止を要請しました。処刑は中止となるのですが、橋詰は切腹を懇願します。どうしても許されないので、橋詰は舌を噛み切りますが治療されて一命を取りとめました。


 当時の外国人で無くとも現代の日本人でも、想像を絶する光景ですが、切腹は「武士の名誉ある死」として平安時代から続いてきました。新渡戸稲造は著書「武士道」の中で、腹部は霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰から、切腹の習慣が確立したと述べています。「腹を割って話す」「腹黒い奴」などの慣用句は頭蓋と同様に、腹部に魂が籠もっていると思われていたからでしょう。

 さて次回は武士が何故、切腹と云う行為を行うのか、少々調べましたので書きたいと思います。おぞましいと思われるかもしれませんが、切腹を理解しないと「武士」を理解することが出来ませんので重要です。