拝啓 近藤勇殿

拝啓 

近藤勇殿。否、流山で改名なさったので、大久保大和殿でしたか。それとも鬼籍に入られているので、戒名「貫天院殿純義誠忠大居士」でお呼びするのでしょうか。

 ともあれ、貴殿に於かれましては、幕末期に新選組局長としてご活躍なさったことが、私共の時代になっても数々の書物で記録が残っており、多くの人々が認知しております。子母澤寛の「新選組始末記」、司馬遼太郎の「新選組血風録」「燃えよ剣」。否、失礼いたしました。「燃えよ剣」は貴殿の盟友、土方歳三が主役でした。何故でしょうか、多分に司馬の不徳の致すところでしょう。

 貴殿は文久三年(1863年)二月二十七日、江戸で結集した浪士組に参加なさり、十四代将軍・徳川家茂の上洛警護の目的で京都に向かわれました。姦物・清川八郎の策略が露見して江戸に戻されることになりましたが、貴殿や土方歳三などの試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、初志貫徹あくまで佐幕の目的で京都に残られました。幕府に対しての忠義心、真の武士に相応しい態度と感銘いたします。
 同年九月には副局長・新見錦切腹に追いやり、芹澤鴨とその一派の平山五郎を誅殺なさいました。この輩共は常日頃酒食に耽り、豪商大和屋の土蔵を焼き討ちするなどの、狼藉を働きましたので当然のご処置だと思います。ただ妾宅で澱酔して寝ているところを、覆面をし屏風をなぎ倒し斬殺したのは、武士として如何だったでしょうか。否、新選組を掌握するためには、致し方無かったと理解しております。

 元治元年六月五日池田屋襲撃の快挙ですが、貴殿が最も輝いたお働きとお見受けいたします。貴殿と沖田総司永倉新八藤堂平助の勇者は後発組を待たずに、二十余人の浪士たちに斬り込みを慣行いたしました。事前に間者の山崎烝が、浪士たちの長刀を隠しておいたので、彼らは脇差しだけ戦ったそうですが、それでも多勢に無勢ですから勇気には感服いたしました。特に浪士の中の吉田稔麿宮部鼎蔵は、後年に新政府が出来たら、要職間違いなしと言われた大物ですから、大手柄でございます。
 そして慶応三年(1867年)には新選組の隊員は全て幕臣に取り立てられ、貴殿に於かれましては見廻組与頭格、直参旗本となられたのですから、農民出身(失礼!)の貴殿としては、豊太閤顔負けの立身出世振りでございます。そうそう、この以前に京都油小路にて、伊東甲子太郎を闇討ちして遺体を晒し、御陵衛士の一味を誘き寄せて斬殺したのは、少々乱暴ではございますが多分、土方あたりの策謀でしょう。貴殿のような真の武士の所行とは思われませんので。

 しかしながら少々不満を申し上げれば、池田屋の変の後は貴殿が愛刀・長曽禰虎撤を振るって斬り込みの先頭に立つことが無くなってしまったことです。もはや二百人を越える新選組の局長ですから、致し方ないのですが、黒羽二重の装いで大名駕籠に乗って二条城に出仕するのは、いかにも貴殿には似合わないと思うのですが如何でしょうか。貴殿が書き残した「江戸撃剣匠 近藤勇」の文字通り、生涯剣に生きて戴きたかったと思う次第でございます。

 そして貴殿の武運も拙く、慶応四年一月三日の鳥羽伏見の戦い幕府軍は敗れ、幕府の命運も尽きようとしていました。貴殿は裏切者・篠原泰之進の銃弾で重傷を負い、鳥羽伏見で戦えなかった事は存じておりますが、さぞや無念であっただろうと心中お察し申し上げます。しかしその後、江戸に戻ってきた隊士達と甲陽鎮撫隊を結成して、甲州で敵軍を迎え撃とうとなさりました。進軍の途中で故郷・武蔵国多摩郡に凱旋なさり、故郷の大歓迎でつい長居をして甲府城に遅参し、既に敵軍に占領されていたのはご愛敬ですが、そもそも甲州防御の作戦は、勝安房守が貴殿ら新選組を江戸から引き離す策謀だったのです。同じ幕臣として、勝麟はなんと非道い扱いをするものだと憤りを憶えます。

 甲州での敗戦後、貴殿の最期の場所となってしまった下総流山に転陣するのですが、お伺いしたい事があります。貴殿は何故、土方の提案する会津での決戦を拒否し、「大久保大和」という変名で投降してしまったのでしょうか。後年私共の時代では、貴殿の「気力が萎えた」「命を惜しんだ」などと批評する不届者がおりますが、私は決してそのようなことは無いと信じております。私は仲間を会津に落とすため、時間稼ぎをしようとした、貴殿の深謀遠慮なお考えではなかったかと愚考しております。
投降の後、正体は直ぐに露見して刑場の露となってしまわれるのですが、私の知る限り、敵に捕らわれて死罪となった新選組隊士は、貴殿と「人斬り鍬次郎」こと大石鍬次郎の二人のみです。他の者は皆、華々しく戦で散ったか、隊規を犯して切腹したか、理由は様々で粛正されたかです。貴殿は切腹も許されず、後手に縛られ斬首となり、板橋で三日、焼酎に漬けて京都に運び、三条河原で三日梟首されてしまいました。このような最期を望んでおられたとは、到底思われませんので、ご無念の心中をお察しすると痛惜の念を禁じ得ません。

 しかしながらご安心下さいませ。私共の時代では、貴殿が間違いなく最後の武士と多くの人々が信じております。貴殿が亡くなられた後に廃刀令で武士は消滅してしまい、戦はありますが鉄砲が主力の味気ない物になってしまいました。私共の時代は、「武士道」の心も消えてしまい、無教養で私利私欲の輩ばかりが徘徊する、世知が無い世の中でございます。

「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」

と申します。貴殿の名前は「最後の真の武士」「最後の武士道の実践者」として、私共の心に刻まれておりますので、「男子の本懐を遂げられた」とご安心なさって、安らかにお眠り下さいませ。

敬具


平成二十年十月二十九日
後世之一平民より