神道無念流免許皆伝 永倉新八

 新選組隊士に阿部十郎(隆明)という者がおりました。この阿部ですが、明治三十二年に新選組元隊士の談話を集めた「史談会速記録」に次のように語っています。

「近藤の部下の中で剣の腕は、沖田(総司)はなかなかよく、その次は斎藤(一)、そして永倉は沖田よりはチト稽古が進んでいました」

阿部は新選組を離脱して誅殺された、伊東甲子太郎の一派で、伊東が油小路で斃れた時には、別の場所に居て難を逃れましたが、その復讐で篠原泰之進らと共に、近藤勇伏見街道墨染で狙撃しています。戊申戦争では赤報隊に加わり、維新後北海道に転居して、リンゴ栽培に力を注ぎ、北海道果樹協会を設立した変わり者でもあります。阿部が作った「満紅(まんこう)」と云う種のリンゴは、現在でも青森県南や津軽地方で愛されています。
実際の隊士で「ぜんざい屋事件」などでも活躍した、阿部の談話ですから信憑性がありますので、新選組の剣豪第一は永倉、第二は沖田、次が斎藤となるでしょう。

 天保十年(1839年)永倉は松前藩士・長倉勘次の次男として、同藩江戸下屋敷で生まれました。八歳で神田猿楽町の岡田十松の神道無念流「撃剣館」に入門、十五歳で切紙、十八歳で本目録を得ています。翌年、剣術修行の為に松前藩を脱藩、姓を長倉から永倉に改めています。改めて神道無念流を百合本昇三に学び、二十二歳で免許皆伝を許されるのですが、その頃に天然理心流の道場を開いていた近藤勇と出会っています。文久三年(1863年清河八郎が浪士組を募集すると、近藤、土方歳三らと参加し、以後新選組が結成されますが、近藤達と行動を共にします。
 新選組副長助勤・二番隊組長となり、その剣の冴えで目覚ましい活躍をしますが、何と言っても元治元年六月の「池田屋事件」では、近藤、沖田総司藤堂平助と共に、多数の浪士の中に共に斬り込み、沖田が吐血、藤堂が負傷して戦線離脱するも、獅子奮迅の活躍をしました。この時の激しい戦いで、刀が曲がり鞘に納められず、抜身の刀を提げて帰営したそうです。
池田屋事件新選組の名声が高まると、近藤は戦闘の第一線に出なくなり、慢心の様子が見えるようになりました。永倉は原田佐之介、斎藤一らと近藤弾劾の建白書を会津藩邸に出しますが、会津藩松平容保の仲立ちで建白書は取下げられ、謹慎処分を受けます。
新選組の隊士達は隊規で命令系統や序列を作っていますので、大名家の様な主従関係ではありません。近藤は隊士達を自分の家来のようにしようとしたので、永倉達が反発したのでしょうが、近藤もこの件で多少振舞いを改めたようです。普通ならこのような反乱を起こせば、もっと厳しい処分となるはずですが、近藤も永倉の剣の腕を買っていて、一目置いていたのではないでしょうか。

 その後は永倉も近藤によく従い、新選組を離脱した伊東甲子太郎高台寺御陵衛士隊の一派を、油小路で斬殺しています。この時藤堂平助だけは救おうとしましたが、乱刃の中では果たせませんでした。近藤の示唆があったのでしょうが、永倉も旧友の藤堂だけは、助けたかったのではないでしょうか。
慶応四年(1868年)戊辰戦争では、新式銃で攻撃する薩長連合軍に対して、刀一つで斬り込み果敢な戦いをしますが敗れて、甲陽鎮撫隊に属して甲府で戦い、小山、宇都宮と転戦して会津を目指しますが、既に鶴ヶ島城は包囲されていて合流は出来ませんでした。戦後は暫く江戸に潜伏していましたが、松前藩家老下国東七郎の仲立ちで藩に帰参し、藩医杉村介庵の婿養子になります。明治六年(1873年)に北海道に転居して家督を継ぎ、杉村義衛と名乗り、北海道樺戸集治監の剣術師範を勤め、江戸に出て剣術道場を開いたりしましたが、その後は小樽で生活しています。


 晩年の逸話があります。
明治二十四年(1891年)の日清戦争の時、永倉は五十七歳になっていましたが、陸軍に抜刀隊となって戦いたいと志願します。結局は鄭重に断られてしまうのですが、

「元新選組に力を借りたとあっては、薩長も面目丸潰れってわけかい」

と語ったそうです。歳を取っても気力は些かも衰えていません。

 またずっと後のことですが、永倉は孫と一緒に活動写真を好んで、よく見に行っていました。当時の劇場は靴を脱いで上がるので下足箱があり、終演時は客が一斉に出てくるので込み合います。永倉は孫と一緒に並んでいると、土地の若い愚連隊が数人が割り込んできて、永倉を突き飛ばしました。永倉は突然背筋を伸ばし、腹の底から絞り出すような気合い声を上げて睨みつけると、愚連隊は蒼くなって立ち竦み、震え上がっていたそうです。その孫の杉村道男氏が「おじいさん凄いね」と言うと

「あんな連中は屁みたいなもんだよ」

と笑って言いました。後年作家の池波正太郎が取材した時に、杉村道男氏本人が語った話なので事実でしょう。当時の永倉は、もう七十を過ぎていましたが、幕末に新選組の隊長として乱刃の中、数々の修羅場を乗り越えてきたのですから、数人の愚連隊など物の数ではなかったのでしょう。


 永倉は京都にいる頃、島原の芸妓・小常との間に娘をもけています。戊辰戦争の混乱で別れ離れとなってしまったのですが、明治三十四年頃に仲の良かった島田魁の葬儀で京都に行ったとき、尾上小亀と名乗って役者になっていた娘・磯子と再会をして、一晩父娘水入らずで酒を酌み交わし、語り明かしたと伝わっています。
どんな話をして、何を回想していたのでしょうか。小常とひとときの安らぐ生活こと、新選組隊士として青春の日々を、激しい戦いに身を捧げていた仲間こと。
磯子とはその後、二度と相まみえることはなかったそうです。

大正四年(1915年)一月五日、永倉新八は小樽で亡くなりました。享年七十六。



新選組証言録 『史談会速記録』が語る真実 (PHP新書)

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