出羽浪人 清河八郎

 人を評価するとき、本当に人格や能力を、客観的に見て行っているでしょうか。実際はその人の血筋、家柄や所属している組織など、背景に目を奪われて、正しく評価が出来ていない事もあると思います。この男は後盾が何もなく、徒手空拳の身で多くの人々に影響を与え、歴史に名を残します。
いい意味でも、悪い意味でも。


 幕末に清河八郎という人がいました。出羽国庄内藩清川村郷士・斉藤豪寿の長男として生まれますが、斉藤家は郷士といっても、根っからの武士の家ではありません。斉藤家は造り酒屋を営んでいた豪家で、藩への献金で名字帯刀を許されたのです。八郎はこのような生い立ちですが、維新革命では各地の志士の尊敬を集め、学者や幕臣にも交友関係が広く、果ては幕閣までをも動かしました。確かに昌平黌で学び、北辰一刀流の免許も持っていますので、履歴はまずまずですが、所詮は田舎藩の浪人ですから、何か特別な魅力か人に与えるインパクトが有った人物なのでしょう。ただ私が思うに、八郎の行動から判断すると、現代にもいるような「天才詐欺師」的な人物です。

 少年時代は父親から漢籍を学び、庄内藩士畑田安右衛門から詩経易経などを学びました。江戸に出てからは東条文蔵の塾に入門、後に昌平黌で学び、同時に千葉周作の道場玄武館北辰一刀流を学びます。当時の八郎はなかなか勤勉で、彼の日記によると1日4時間程の睡眠時間だったそうです。この勉強と剣術修行の間に交友関係を広め、生涯の盟友安積五郎や幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)と出会います。
またこの頃八郎は、広島、四国、京都、奈良、大阪、大津、伊勢、鎌倉など巡る大旅行をしています。その後、勤王運動を始めてからは、九州をほぼ一周の旅もしていますし、八郎は旅行中に出会った人々に、相当思想的に影響を受けたようです。兎に角、この清河八郎という人は生涯頻繁に旅して、一ヶ所に留まることが無かった人です。

 何故、八郎の行動が詳細に分かるのかと云うと、相当な筆まめな人なので日記が沢山残っているからです。その日記も特徴があり、人物評や世相、自分の志や思想など、どうやら将来的に、人に見られることを意識したような内容になっています。例えるなら、まさに現代の「ブロガー」の先駆けのような人です。

例えば、八郎は並以上に女好きだったのか、旅に出ると必ず遊女屋に立ち寄り、女郎買いをしています。そのことを日記では

「遊里に行って遊ぶのは、単に色好みのためではない。土地の人情の特色は最も遊里において表れる。旅人には最も知りやすいのである」

と書いています。分かる気もしますが、わざわざ日記に書く程ではないでしょうし、穿った見方をすれば言い訳がましい感じもします。帰国しても同様に、庄内の女郎屋に頻繁に通っているのですから、地元の人情の確認をしたかったのでしょうか。
庄内の女郎屋ではお蓮という女を身請けして、妾としています。


 万延元年(1860年)に起こった桜田門外の変に衝撃を受けた八郎は、国事に傾倒して熱烈な攘夷思想を持つようになります。水戸では天狗党が攘夷の気勢を上げ、薩摩でも有馬新七ら過激派が、朝旨を奉じて幕政改革の企てをします。八郎も行動を起こそうと、同志を集めて「虎尾の会」を結成して首領となりますが、この時の同志に幕臣山岡鉄舟も参加しています。以前に書きました、「寺田屋騒動」も八郎は企てに参加していたのですが、事件の前に、本間精一郎(後に岡田以蔵に暗殺される)らと京都で舟遊びをしている時に、役人と揉め事を起こして挙兵計画から外れています。寺田屋同志の挙は失敗に終わるのですが、八郎がその場に居なかったのはその為でした。

 陰謀逞しい八郎は、次に幕府の力と金を使い、越前福井藩松平春嶽を総裁として浪人を集めて「新微組」を結成します。目的は京都に上がる将軍を警護することでしたが、本当は朝廷の勅諚を受け、攘夷の先鋒となることです。この新徴組が分裂して、一派が新選組となりますので、近藤勇土方歳三なども参加していました。八郎のこの企みを知った幕府は仰天して、新徴組を江戸に戻るように命じますが、江戸に戻った八郎は局面を打開するために、横浜の居留地襲撃を計画します。手に余った幕府側は遂に、新徴組から幕臣佐々木只三郎、逸見又四郎、中山修助、高久安次郎の剣豪達に、八郎暗殺を命じました。

 文久三年(1863年)四月十三日、八郎は出羽上之山藩藩士・金子与三郎宅に向かう途中の麻布一の橋で刺客に斬られました。八郎の剣の腕を用心して、周到に計画された暗殺です。佐々木只三郎が八郎に声を掛け、佐々木が編笠を脱いでいたので、礼儀に則して八郎も取ろうとした瞬間に抜打ちに斬りつけ、後は残りの人数で囲み、ズタズタに斬り伏せました。この時代の暗殺はどの場合でも、武士とは思われぬほど、卑怯な手段で行っています。


 この後にちょっとした出来事がありました。
八郎遭難の報を受けた山岡鉄太郎は、懐中に同士の連判状があることを知っていたので、同士の石坂周造を呼んで、八郎の首と連判状の奪還に命じました。石坂が急いで麻布一の橋まで来ると、八郎の遺体はそのままで町役人が囲んでいます。石坂は一計を思いつき

「嗚呼、これは年頃探し求めたる不倶戴天の仇、清河八郎である。思い知ったか」

と叫び首を打ち落とすと、懐中から連判状を抜き取り、狼狽する役人を尻目に走り去りました。持ち帰った八郎の首は、山岡邸の床下に埋めますが臭気がひどく、道場の床下、塵捨場など埋め直し、最後は山岡邸の小高い山の上に埋めたそうです。
やはりこの男は首になっても一ヶ所に留まりません。
後に小石川の傳通院に葬られ、明治四年に八郎の弟・誠明が清川村に改葬して、やっと故郷に戻ることができました。

 八郎は権謀術数の人物ですが、藩の後盾が無く事を起こそうとしたのですから、仕方が無かったかもしれません。薩摩藩大久保利通や公家の岩倉具視でさえ、倒幕の為には相当な陰謀を計りました。古今東西変わらぬ事ですが、革命家は現政権から見れば犯罪者ですが、成し遂げれば英雄になりますので、八郎は英雄に成り損ねただけでしょう。


 葬られた小石川傳通院ですが、私の家の菩提寺なので、何故ここに葬られたか気になります。新徴組で攘夷の先駆けになろうとした時、結集したのがこの傳通院でしたから因縁でしょうか。

清河八郎は攘夷の志を果たす為に、傳通院から京に向かった訳ですが、結局首になって帰って来ました。




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