二十一回猛士吉田松陰 その壱

 吉田松陰が、類い希なる教育者であることは、門下生を見れば解ります。
久坂玄瑞高杉晋作桂小五郎木戸孝允)を初めに、伊藤利介(博文)、山縣小輔(有朋)、山田市之丞(顕義)、吉田稔麿品川弥二郎、佐世八十郎(前原一誠)と皆維新運動に挺身し、多くが明治政府の指導者となっています。しかもそれが松陰が住まいとしていた、杉家の廃屋修理して始めた、八畳一間の塾から輩出していることに驚きます。
その塾の名が「松下村塾」です。


 文政十三年(1830年)八月四日、松陰は長州藩杉百合之助の次男として生まれました。百合之助は二十六石の微禄でしたが、一族揃って篤学の人でした。松陰が五歳の時に叔父吉田大助が重病になったので、家の存続の為に養子となって吉田家を継ぎ、大助亡き後僅か六歳で当主となります。吉田家は山鹿流軍学の師範を代々行っていたので、松陰も継いで学び、これは叔父の玉木文之進が教えるのですが、この人は大変厳しく松陰を仕込みました。

司馬遼太郎の小説「世に棲む日日」に、こんな逸話がありました。
文之進が野良仕事している横で、松陰が孔子孟子の本を読んでいると頬に蝿が止まり、痒いので掻いたところ文之進は松陰が気絶するほど殴ったそうです。その理由は現代の政治家に聞かせた言葉です。

「聖賢の本は、民を治める事を学ぶのであって公である。頬を掻くという行為は私である。公を行っているときに私を行ってはならない」

その様子を見ていた松陰の母の滝子は、「こんな辛い思いをするのであれば、いっそ死んでおしまい」と思ったと、後の手紙に書いています。まさに「ゆとり教育」など、裸足で逃げ出す厳しさです。

 又、文之進の家に通っていた頃にこんな話もあります。松陰の兄梅太郎が、今日は祝日なので勉強を休もうと言うと

「今夜も一生の内の一晩です。休むわけにはまいりません」

と答えたそうです。勤勉の美談としてよく言われる言葉ですから、珍しく無いと思われるかもしれませんが、松蔭は短いながらも生涯これを貫いています。「継続は力なり」これは私の子供も見習って欲しいものです。

この玉木文之進は、明治九年(1876年)前原一誠が起こした萩の乱に、養子の玉木正誼や門下生の多くが参加した責任を取って、先祖の墓前で腹を切りますが、介錯は妻で松陰の姉のお芳が行ったそうです。武家の定めとは云え壮絶な最期です。


 松蔭は軍学兵学ばかりでなく、儒学や史学も学んでいますが、特に儒学の一種「陽明学」を好んでいたようです。この陽明学にある教えの一つに「 知行合一」があります。「知は行の始めにして、行は知の成なり」といった教えで、松蔭の時代は本来の意味を少々誤解していたようで、「実践重視主義」と思われていました。実践重視主義とは、簡単に説明すると「思想は行動が共なってこそ完成する。言行一致でなければならない」というものです。そのために革命家の多くが影響され、松陰の他にも高杉晋作西郷隆盛河井継之助、以前では大塩平八郎赤穂浪士木村岡右衛門吉田忠左衛門もそうであったと云われています。正しいと信じたことを必ず実践すれば、過激になる場合もあるので、多くの信奉者が非業の最期を向かえることになるのも頷けます。そう三島由紀夫陽明学の信奉者だったそうです。

 松陰も陽明学の影響だったのでしょうか、後に海外見聞の目的でロシア軍艦に乗り込み、密航をしようとして果たせず、今度はアメリカ軍艦にも乗り込もうとしますが、結局捕らえられて伝馬町の牢に投ぜられ、その後は長州萩の野山獄に送られました。尊皇攘夷思想に傾倒していった頃には、勅許なく日米修好通商条約を結ぼうとしたことに憤り、老中の間部詮勝の暗殺を企てますが、これも露見して再び野山獄に入れられました。


 しかし入牢していても松陰の向学心は衰えません。最初に野山獄に入ったときは、兄梅太郎の差し入れた本を、十四ヶ月の間に六百十八冊読破したそうです。それも読み流したのではなく、批評を書いたり抄録を作ったりしています。
また教育者としても、その才能をいかんなく発揮します。同じ野山獄の囚人十一人に、孟子論語日本外史の講義を始め、忽ち獄の中の風紀は一新し、勤勉と求道の精神に満ちあふれます。
獄内で教えていたのは、松陰だけではありません。俳諧を嗜む者は俳諧を、書道の名手には書道を、それぞれの人を師匠として囚人皆で習い、当然松陰も「先生」と呼び、他の師匠の教えを膝を正して学びました。受験の為の勉強でも、立身出世の糧にしようとする為のつまらない勉強でもはありません。心の窪みを埋めていくような、清廉な気持ちで学ぶ姿、これほど美しい教育の現場を私は他に知りません。
傍で聞いていた獄吏の福川犀之助も影響され、弟高橋藤之進を誘って廊下に正座をして拝聴したそうです。福川は正式に松陰の弟子になり、上司に上申して禁止されている夜間の点灯も、勉学の為と骨を折って許しを得てきました。

 松陰は入牢中に食費を節約して、金を貯めています。目的は松陰が密航の罪で捕らえられたときに、連座して捕まった同志金子重之助が牢で衰弱死したので、その墓碑を建てる費用にするためです。一年で百疋の金を貯めたのですが、一疋は十五文で約二ヶ月分の食費になります。後に金子の死を弔う詩歌を、知遇のある人達に送ってもらい「寃魂慰草」と云う詩集を編纂しています。詩歌を寄せた人は佐久間象山宮部鼎蔵、僧月性、久坂玄瑞、廣瀬旭窓ら著名人ばかりで、松陰の交友関係の広さと金子への友情の厚さを伺い知ることができます。


 入獄してから約一年後の安政二年十二月十五日に、松陰は野山獄を出ました。そして玉木文之進の私塾「松下村塾」を引継ぎ、門弟に教えるようになりますが、以後の事は次回に引き続いて書きたいとおもいます。
書いていて思いましたが、松陰の教育に対する情熱と指導の巧みさには改めて感心します。


新装版 世に棲む日日 (1) (文春文庫)

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