二十一回猛士吉田松陰 その弐

 表題に付けた「二十一回猛士」は松陰の号です。
生家の姓「杉」の字を分解すると、「十、八、三」となるので足して「二十一」。また現在の姓「吉田」を分解すると「十、一、口、十、口」となり、組み合わせると「二十一回」になるわけです。松陰が獄中で見た夢に神人が現れ、持っている札を見せると「二十一回猛士」と書いてありました。目覚てから考えると姓の謎解きで「二十一回」という数字が分かり、「猛士」は松陰の名が寅次郎ですから、「虎=猛獣」で「猛士」というわけです。頓知クイズのようですが、松陰は真面目に神人からの啓示と受けとめて、虚弱体質で気が弱い性格の自分を、「虎」の様に勇猛にならなければならないと決意したようです。自分は今まで三回猛を奮ったので、あと十八回猛を奮うつもりであると、兄梅太郎への手紙に書きましたが、梅太郎は

「志多いによろしい。しかし猛が後十八回も有るのは、たまらないので勘弁願いたい」
「二十一回猛士の説、喜ぶべし、愛すべし。志を蓄へ、気をあわする、尤も妙。然れども今より十八回の猛あらばたまり申さず、多言するなかれ」(原文抜粋)

と返事をしています。松陰と梅太郎との文通の記録は、沢山残っていますが、どれも兄弟同士の打ち解けた内容で、諧謔と愛情が込められた微笑ましいものばかりです。


 出獄しても罪を赦された訳ではないので、自宅に謹慎です。松陰は家族に獄中で孟子の講義をした事、講義の後に皆で輪講(各自の論を言い合う事)した事、それらを記録して「講孟余話」と名付けた事などを話しました。家族は是非詳しく知りたいと、翌日講義することになるのですが、受講者は父杉百合之助、兄梅太郎、玉木文之進、外叔父の久保五郎左衛門。皆、松陰が幽閉されている座敷に集まり、膝を正して松陰の講義を聞いたそうです。篤学な一族であるとは、私も以前に書きましたが、時代が違うとはいえ、想像出来ないような奇跡的な光景と思います。崇高な向学心と家族愛が養分となって、松陰の人となりが出来上がったことがよく解りました。


 松陰は叔父文之進の松下村塾を継いで、教授になるのですが塾頭に、富永有隣を招きます。富永は野沢獄の同囚で、狷介孤高(かたくなで協調性が無い)な性格を家族や仲間に疎んじられて、罪を着せられ入牢していました。松陰が孟子の講義を始めた頃は、馬鹿にした態度で聴いていなかったのですが、松陰の人となりを知り、最も尊敬するようになります。元々が相当の学識がある富永なので、松陰も愛し、塾頭を依頼したのだと思います。しかし後年、松下村塾を閉めなければならなくなった時に、松陰は富永に塾の後継を頼みますが、富永は断り実家に帰ってしまいました。松陰は「有隣の脱去、老狡憎むべし」と怒り、塾生も皆富永と絶交してしまいましたが、富永の狷介孤高な性格は直っていなかったのでしょうか。富永は維新後も、近所の子弟に尊皇論などを教授して、明治三十三年に亡くなります。国木田独歩の小説「富岡先生」は、この富永有隣をモデルにしたそうです。


 松陰の教育方針は、知識を詰め込むのではなく、人間教育と武士としての生き方を教えることに、重点を置いていました。
松陰が野山獄中で、従兄弟の玉木彦助元服祝いに贈った、武士の心得で「士規七則」というものがあります。人間としての生き方、武士としての在り方をまとめたもので、松陰の教育理論の根源となっています。武士の心得で時代が違いますから、現代に当てはめるのが難しい部分もありますが、学ぶべき点も多々あるでしょう。

抜粋ですが、

「一、士の行は質実欺かざるを以て要と為す、功詐文過を以て恥と為す、光明正大、皆是れ由り出づ」
「一、人古今に通ぜず、聖賢を師とせずんは則ち鄙夫のみ、読書尚友、君子の事也」
「一、正徳達材、師恩友益、多きに居る、故に君子は交游を慎む」

など。自信がないのですが、私なりに要約すると、次の様になります。

「武士は質素、実直で人を欺かないことが必要である。人を欺き、自分を飾ることは恥ずべき事である。真実はこの行いによって見出される」
「人は今も昔も変わらず、聖賢を師としないことは、心が貧しい証拠である。読書をして学び、それを友とすることが君子の行いである」
「徳を備えた人になるのは、恩師、友人が多いことが必要であるが、交友は慎重に行うべきである」

訳してみても難しいですし、私自身も完全な解釈が出来ているわけではありません。
昨今では、「座右の銘」など大袈裟ではなくとも、生きる道筋となる言葉を持っている人など、珍しくなってしまっているのではないでしょうか。松陰の「士規七則」をそうしろと推薦するわけではありませんが、生きていく指針という意味では、力強い文章だと私自身は思っています。興味のある方は是非、全文を精読してみて下さい。


 さて、松下村塾での松陰の教育ですが、自身の育ってきた教育環境と、「士規七則」の教えを考え合わせると、相当厳しく塾生を仕込んだのではないかと思うのですが、意外とそうではありません。当然間違ったことをすれば、叱るのですが、例えば、松陰が指摘したことに間違いがあり、塾生に反論されると素直に詫びていたりしています。
また松陰は「大者は大成し、小者は小成す」と言っていますが、決して差別ではなく、各自の個性を尊重して、どんな些細な事でも、塾生が自分で決めたことを実行すれば、多いに褒めてやりました。
俳句、書道、詩歌など芸術を学ぶ事を推奨して、情操教育にも熱心です。
更に「働きながら学ぶ」という姿勢を重要視して、塾生達には米を搗いたり、庭の草を毟ったり、畑作をしながらも、勉強させています。当然ですが、すべて松陰も一緒に行うのです。江戸に出ていた、久坂玄瑞宛てた手紙では

「書物を会読しながら米を搗くと、史記などは二十四、五枚読む間に精白がおわる。」

と書いてありました。現代でも希有ですが、当時でしたら破天荒とも云える教育方法ではないでしょうか。


 松陰は自分を律することに、大変厳しい人ですが、他人に対しては寛容な部分があります。師匠が常に善行の規範となっているので、それを見て塾生達も自然と従うというわけで、鞭を打ち続けて仕込む必要がないのでしょう。
尊敬と信頼、愛情と同胞意識で結ばれた、理想的な師弟関係が成立する所以です。


 今回も既に長文となってしまいましたので、ここまでにします。次回は師弟の逸話と、その後松陰が尊皇攘夷思想に傾倒して刑死するまでの経緯、少々ですが塾生達のその後の活躍を書きたいと思います。ご精読ありがとうございました。



講孟箚記(上) (講談社学術文庫)

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