二十一回猛士吉田松陰 その参

 松下村塾の門弟で優秀だったのが、高杉晋作久坂玄瑞、吉田栄太郎(稔麿)、入江杉蔵(九一)の四人で、「松門四天王」と呼ばれていました。
松陰はそれぞれの人物評を残しています。


高杉晋作の事
「性質は傲慢で、人の言うことに耳を傾けないように見えるが、取るべきところは取る人物である。必ず大成長する。私が事を成すときは、必ず高杉に相談するだろう」
久坂玄瑞の事
「久坂は潔烈な志操と縦横の才を兼備している。清潔、激烈であるが、縦横無碍の才があり、しかも人に愛せられるところがある」
吉田栄太郎
「栄太郎の識見は高杉に似ている。いささか才があるので気魄が十分に伸びない。人間は気魄が衰えれば識見も昏んで来るので、気をつけよ」
入江杉蔵の事
「杉蔵は卑賤な身分ながら、天下のことを憂える志は奇特である。またその意見が、自分と合致していることは喜びである。その憂えが痛切で策が要をつかんでいるところは、自分も及ばない点である」


松陰は門下生の中でも、この秀才達を多いに買っていて、四人も松陰の思想を受け継ぎ、尊皇攘夷運動に挺身しましたが、高杉は大政奉還を見ることなく結核で病死、久坂、入江は「蛤御門の変」で敗れ自刃、吉田は「池田屋事件」で横死しました。

 
 松下村塾は、特別の入塾の規定もなく、授業料の定めもありませんでした。寄宿生もいましたので、いくらかの食事代や油代などは出していたかもしれませんが、貧しい家の子息もいましたので、松陰の家の手伝いぐらいで金を払えない者もいたのでしょう。松陰の母・滝子は塾生の世話をよく見て、時には食事を食べさせたり、年嵩の者には酒なども振る舞ったそうです。松陰は勉強をする事と教える事を、天命と思っていたのでしょうから、家族も十分理解して助けています。


 松陰は秀才ばかりを贔屓にしていたわけではありません。卑賤の者や能力の劣る者でも、分け隔て無く指導しています。
市之進という十四の若者がいましたが、父に死別して母一人に育てられたので、わがままで我が強く、家族のもてあましものになっていました。ある日市之進が、習字の稽古をしている時に、松陰が庭の掃除を命じると、まだ残りがあるのでと言って従いません。松陰も二度、三度と促しましたが市之進は従わないので、松陰は突然立ち上がり、市之進の書道道具を庭に投げ出してしまいました。仕方なく市之進は庭の掃除をしますが、終わると松陰は呼び寄せ、何故私の楯突くのかと問いました。市之進は謝りますが松陰は

「私に楯突くことが出来るのなら、天下の誰にでも楯突かねばならない。もしお前にそれが出来れば褒めてやるが、出来ぬなら赦さんぞ」

市之進は項垂れています。松陰は一転、優しく続けました。

「お前は賢い子で、私と一緒に勉強するのに足る者だ。しかし聞けば母に不孝を行い、他の行状もよくない。そんな事で天下の人に楯突くことなど出来まい。志を立てて艱苦にも負けずに学問に励み、立派な人間となって信じる事を断じて行い、いかなることにも挫けず貫くのだ。そうすれば天下のいかなる者にも、楯突くことが出来るだろう。これから三十日間、今の言葉を実行せよ」(丁巳幽室文稿)
 
 松陰は負けず嫌いの市之進の性格を見抜き、最も理解され易い言葉で教えます。塾生各々の性格に合わせて指導をしているので、通り一辺倒な指導はありませんでした。


 「吉田松陰全集」に納められている「丁巳幽室文稿」は、松陰の自主性を重んじる教育方針や、実際の教育方法が記録されています。 その中に「煙管を折るの記」という面白い話がありました。

 安政四年九月三日の夜、松陰と富永有隣が松本村の武士の風儀が悪いと論じ、増野徳民、吉田栄太郎、市之進と溝三郎が同席していました。夜が更けた頃、話は塾生の岸田左門のことになります。岸田はまだ十四の少年ですが、煙草を吸うので、松陰は岸田の行末を心配していました。聞いていた栄太郎はいきなり「今日から私は煙草をやめる」と言って煙管を折ると、他の三人も続いて煙管を折ります。見ていた富永も「しからば私も」と煙管を折りました。松陰は、一時の興奮で決めてしまっていいのかと問うと、

「私共は岸田の為に、煙草をやめるのではありません。松本村の士風を立直す手始めにやるのです。先生はそれでも疑われるのですか」

と三人が答え、松陰も悪かったと詫び

「そなたたちの強い覚悟が分かった。この村の士風も立派になって私の憂いも消えるであろう」

と言いました。
翌日、松陰は岸田に昨夜の話を文章にして渡すと、岸田は涙を流して禁煙を誓い、喫煙道具一式を親許に送り返したそうです。後日、この話を聞いた高杉晋作

「私は十六から煙草を吸っているのですが、去年、路で煙管を落としてしまいました。これを機会に煙草をやめましたが、小事とはいえなかなか難しいことでした。皆の禁煙の苦労はよくわかります。」

と言いました。松陰はこのことを、次のように書き記しています。


「春風行年十九、鋭意激昂、学問最も勤む。其の前途、余固より料り易からざるなり。因って併せて其の事を書し、以て諸君に示す。諸君其れ遼豕の笑ひとなるなかれ」(丁巳幽室文稿)


春風とは高杉のことです。文章の雰囲気が伝わるように、原文で載せましたが、内容はお解りになると思います。文末の方は「煙草をやめるぐらいと笑ってはいけない。立派なことなんだぞ」といった意味です。

 松陰は小事であっても、有言実行することが大事であると教えています。これは以前に書いた松陰の教育方針、陽明学の「知行合一」の考えにも沿ったことなのでしょう。また松下村塾の塾生同士の連帯感と、凛乎たる求道の気風が表れている逸話だと思います。


 「知行合一」は小事であっても、大切なことであると松陰は説きますが、逆にどんな困難な大事であっても、必ず成さなければいけないと云うことで、陽明学思想の根本原理ともいえます。このことを理解すれば、松陰が尊皇攘夷思想から派生して、倒幕の思想を持つようになった時に、その行動は全て必然であったことがわかります。
 
 今回も長くなってしまいましたので、続きは次回にして、この記をまとめたいと思います。次回もよろしく御願いします。



吉田松陰名語録―人間を磨く百三十の名言

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