示現流

 前回まで続けて書いてきた「寺田屋騒動」が、自分としては大作だったので、今回は「小ネタ」にさせて頂きます。

寺田屋騒動」にも何度か出てきた、剣術の流派「示現流」ですが、元々はもっと古くからある「タイ捨流」が原点です。このタイ捨流ですが、肥後出身の剣豪、丸目蔵人(長恵)が開祖で九州一円に広がり、薩摩でも多くの藩士が学んでいました。示現流を立てた東郷重位も、幼い頃から、丸目蔵人の高弟・東権右衛門正直からタイ捨流を学び、免許皆伝を受けています。

 天正十五年(1587年)に藩主島津家久に従い上洛した重位は、曹洞宗天寧寺の善吉和尚(俗名:寺坂政雅)に天真正自顕流を学び、僅か半年で自顕流を相伝します。この時の重位と善吉和尚との出会いを、小説ではこんな風に書いてありました。以前に読んだのですが、どなたの著書だったか忘れてしまいました。


重位が泊まっている寺の境内で、立木打ちの修練をしていると、寺の小僧が言います。

「和尚様がおっしゃるには、『うちに泊まっている御武家さんは、えらく兵法に熱心だが腕前はまだまだじゃ。立木打ちの音を聞けば分かる』と言っておりました」

重位はかねてから、まだまだ未熟と思っていたので、小僧に聞きます。

「ほう、当山の和尚様は、兵法をおやりになるのか」
「兵法はおやりになりませんが、以前は御武家さんだったと聞いています」

重位は直ぐに和尚に会い、その場で指南を請い、天真正自顕流の修行をしました。


と、いったような内容だったと思います。ただ、これはいかにも創作臭い話ですね。師匠との出会いでは、よく使われる手法で、刀工・正宗に弟子入りした村正(これは年代が違うので、明らかに創作)も、刀を鍛える音を聞いて、駄目出しをされた村正が弟子入りを請うといった話でした。小説の中で運命の出会いは、ストーリーの重要な場面なので、「噂を聞いて、会いに行きました」では、いかにも盛り上がりません。

 国に帰った重位は、その後も修行を怠らず三年間一日も休まず、柿の木に立木打ちを行い、遂にその木は枯れてしまったそうです。慶長九年(1604年)藩主家久の命で、師匠だった東権右衛門正直と御前試合を行い、これに勝って薩摩藩の剣術指南役に登用されました。以後、薩摩藩では示現流が主流となり、幕末期も多くの志士がこの示現流の使い手です。

 示現流の特徴は、「蜻蛉(とんぼ)」と呼ばれる上段の構えから、「一の太刀を疑わず」「二の太刀要らず」と云われる、初太刀で一撃必殺の剣を撃ち込むのが特徴です。その際に「猿叫(えんきょう)」という独特の掛け声を発します。
先日見たテレビで鹿児島に今も伝わる、示現流の練習風景がリポートされていましたが、小説や劇画でよく見る「チェスト」と叫ぶ掛け声はありませんでした。実際には「チェー!」「ギェー!」とか、ちょっと言葉で表現するのが難しい叫声です。流派は違いますが、示現流と親戚のような流派、「薬丸自顕流」の達人・薬丸兼陳は、掛け声で備前焼の茶碗が割れるほどで、練習の時は共鳴しないように、茶碗を伏せていたそうです。
ガメラに出てくる「ギャオス」のような超音波でしょうか、もはや達人というより、人間離れしています。

「肉を斬らせて骨を断つ、骨を斬らせて命を断つ」
示現流には防御という概念がありませんので、薩摩の「示現流」や「薬丸自顕流」の使い手が用いた刀は「薩摩拵」と云って、鍔(つば)が極端に小さいものです。この小さな鍔は、防御が必要ないことの象徴で、剣先の重さを強調して斬撃の威力を増す効果があります。
 戊辰戦争江戸城が開城した後も、駐留していた官軍は江戸に残っていた幕臣と小競合いがあり、辻斬りなども横行していました。辻斬りは違法なので、下手人捜しを当然するのですが、薩摩者の犯行は直ぐに分かったそうです。一撃の太刀で袈裟懸けに、首筋から、反対側の腰の位置まで斬り下げられ、検死の役人も目を背けるほど無惨な遺体だったからです。


 幕末の剣豪、新選組局長の近藤勇は常日頃「薩摩の初太刀をはずせ」と、隊士達に注意を促していたそうです。
京都の街を歩いている時に、暗闇から突然「蜻蛉の構え」の浪人が「猿叫」を上げて斬りつけてくる。そんな光景は想像するだけで、背筋が寒くなりますよね。


薩摩拵

薩摩拵