寺田屋騒動  「転」


大山巌元帥陸軍大将」  ※当時は寺田屋の同志でした。格之助とは別人。



 田中謙助が道島五郎兵衛に斬り倒されると、その頃には使者の残り五人も寺田屋に到着していました。
山口金之進は薬丸自顕流(薩摩示現流の流れ)の達人です。山口は抜刀するやいなや、柴山愛次郎の後ろから、流派の型通りに両肩を袈裟懸けに斬ると、柴山の首は前にポロリと落ちました。柴山は以前より、上意討ちの使者が来たら手向かいせずに斬られるつもりだと言っていたので、この時も刀は持っていなく、両手を畳に付けたままだったそうです。覚悟の自殺ともいえる最期です。
道島が田中を斬ると、有馬新七は憤然と刀を抜いて立ち上がり、道島に斬り掛かります。道島は示現流の、有馬は新影流の達人ですから、激しい鍔迫り合いになり、そのうち有馬の刀が鍔元から折れてしまいます。しかし有馬は怯みません。体当たりで道島を壁に押し付けると、二階から異変に気づき駆け下りてきた、橋口吉之丞に向かって叫びました。

「おいごと刺せ、おいごと刺せ!」

吉之丞は橋口壮助の弟で当時二十歳でしたが、目の前の惨劇に興奮しきっていますので、渾身の力で、有馬の背中から道島の胸に刀を突き刺し壁に突き立てました。後で検分すると、刀は壁を二寸も突き抜けていたそうです。道島も有馬も絶命しました。有馬新七、享年三十八歳。


 森山新五左衛門はちょうど厠から出てきたところで、大刀は二階に置いたままでしたが、取りに行かずに脇差しを抜いて乱闘現場に飛び込み、十数ヶ所を斬られ気絶しました。新五左衛門は、以前に少し取り上げて書いたことのある、森山新蔵の長男で当時二十歳です。新蔵は元々町人で、藩に献金して武士に取立てられましたので、新五左衛門には常に「武士以上に武士らしく」と訓戒していました。
普通に考えれば、二階に刀を取りに行き、仲間に助勢を頼んでから戦いますが、薩摩武士は違います。それでは命を惜しんで臆したとみなし、武士にあるまじき卑怯な振舞いと思われてしまうからです。薩摩武士にとって臆病、惰弱、卑怯は最大の悪行で、勇猛、潔さが美徳です。「武士道」は究極のストイシズムですから、現代人の考える合理性などが入り込む隙間はありません。


 二階に居た同志達のほとんどが、階下の出来事に気づきませんでした。弟子丸竜助だけは異変に気づき降りていくと、階段下の暗がりに居た示現流の達人大山格之助に腰を刎ねられ、転げ落ちたところで斬り伏せられます。続いて降りてきた橋口伝蔵も大山に足を斬られますが、片脚で飛びながら乱刃の中に躍り込み、二合三合と奮闘しますが討取られてしまいます。西田直五郎は階段を降りてきたところ、上床源助に刀を突き立てられ、直ぐ起きあがって、これまた奮闘しますが最後は討取られました。

 柴山竜五郎が階下を覗き込むと、血塗れの奈良原が居ます。奈良原は刀を投げ捨て、諸肌を脱いで言いました。

「上意によってでごわす。有馬新七は君命に背いた故、討取り申したが、ご一同に敵意はござらん。手向せずに和泉様の前にご出頭くだされ。後生でごわす、頼む、頼む。」

奈良原と柴山とは特に親しい友垣だったので、両手を合わせ涙を流し訴えます。柴山は沈黙しています。奈良原は手を合わせたまま二階の座敷に入り一同に投降を訴えました。柴山はやっと重い口を開き「皆で協議をするので下で待ってくれ」と言うと、奈良原は承託して一階に降りました。
奈良原が下に降りると、斬り伏せられた橋口壮介が虫の息で水をくれと訴えています。「手負いに水」は禁物ですが、もはや助からないとみた奈良原は水を汲んできて与えると、橋口は嬉しげに飲み干して

「おいどんが死んだら、天下のことはおはんらに頼み申す」

と言って、息を引きとりました。憎しみ合っている訳でもなく、敵味方でもない二人にとっては袖を絞る悲しい別離です。


一方、二階では切腹しよう玉砕しようと、議論百出なかなか決まりませんでしたが、田中河内介が奈良原と差向かいで話をして、これ以上の抵抗は無意味と判断し、皆を説得して遂に投降を承託しました。河内介は薩摩藩士ではありませんが、これまでの経歴と尊皇活動の実績でこの挙のリーダー的存在です。また河内介同様に薩摩藩士ではないですが、思想的リーダー格の真木和泉も投降を承託しました。
真木はこの後、長州藩に接近し「蛤御門の変」では、薩摩藩と敵対するのですから、この事件ですっかり薩摩藩に嫌気がさしてしまったのではないでしょうか。


 この事件で、有馬新七柴山愛次郎、橋口伝蔵、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口壮介が死亡、使者では道島五郎兵衛が死亡、田中謙助、森山新五左衛門が重傷を負いました。他の使者もそれぞれ深傷浅傷を負い、無傷は大山格之助だけです。
彼らの多くが使う示現流は、「二の太刀要らず」と云われる必殺の剣法ですから、浅手を負わせて戦闘力を無くすなどといった戦法はありません。抜身の刀で立ち会えば、この様な結果を招くことは必定だったのです。


 曹植が作った七歩詩「豆を煮るに豆殻をもって炊く」の如く、同朋同志の陰惨な結果となってしまいましたが、前に書いた鹿児島の人々に「暗い影」を落としているのは、この日の出来事だけではありません。この後の処理が目覆いたくなるような、非道で無慈悲な所行でした。(次回に続く)