寺田屋騒動  「承」


  「寺田屋」  現在




 文久二年(1862年)四月二十三日午後十時頃、島津久光の使者九名は二組に分かれ、奈良原幸五郎、道島五郎兵衛、江夏仲左衛門、森岡善助の四名が先着し、寺田屋に入って来ました。奈良原は寺田屋の主人伊助に、有馬新七との面会を求めると、二階から有馬新七柴山愛次郎、田中謙助、橋口壮助が降りてきて一階の部屋に入り、まず奈良原が言います。色々な人が「寺田屋騒動」について書いていますが、この時の様子は大抵同じで以下のような進行だったようです。

奈良原「和泉様(久光)の仰せでござる。直ぐに錦小路のお屋敷に参られ、御前に出られよとのことでござる。和泉様、朝廷の御首尾まことによろしいのでござる。おはん方の働き場所はいくらでもあるのでごわすぞ」

有馬「和泉様のお召しまことに恐れ入り申すが、拙者共は青蓮院宮(後の久邇宮朝彦親王)のお召しを蒙り、これから参るのでごわす。まずは宮のご用を済ませた後、まかり申そう」

奈良原「君命でごわすぞ。どしても聞かれんと申すなら、上意討ちの君命を蒙って来ていもすが、それでも苦しゅうござらんか」

有馬「苦しゅうござらん。君命より宮(ここでは天皇の意味)の仰せの方が重うごわす」


ここで話を一旦止めますが、ここが前回書いた「武士の心」の葛藤を象徴する一番大事なところです。
「阪東武者は主あるを知って、主に主あるを知らず」
文頭に阪東武者とありますが、阪東に限ったことではありません。鎌倉時代から七百年余りの長きに渡り、武家社会のヒエラルキー(階層構造)を構成する、最も重要な基本理念で、封建制度の基盤ともいえる考え方です。力みかえって言う程でなければ、武士の「常識」と言ってもいいでしょう。もしこれが無ければ、桂川明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言った途端、兵は密告に奔ったり逐電したりして、光秀の一族だけ本能寺に攻め込む赤穂浪士の「吉良邸討入」程度の規模になってしまうでしょう。

 有馬新七は元々、山崎闇斎の崎門学の学徒でした。この学問は朱子学の中でも最も激烈純粋な尊王思想で、大義名分を大変重んじています。有馬自身も藩に対する誠忠と、朝廷に対する誠忠との狭間で悩んだのでしょうが、既にそれを乗り越えていたのだと思います。しかし有馬だけが、このような「尊王至上主義」の異端児だったのなら話は簡単ですが、実は当時の武士のほとんどが、心の中に「尊王」の精神を燻らせていたので複雑になります。この場にいる奈良原も尊王の精神は持っているのですが、有馬の様に藩主を乗り越えてはいないだけです。

 「尊王(尊皇)」の思想は、江戸期に水戸学の藤田幽谷が「正名論」をまとめたものが原点となり、朱子学と混じり合いながら理論形成されていきました。幕末の頃は武士も一通りの教育を受けていますので、「尊王」の思想は現代に置き換えれば、デモクラシーと同じくらいに日常的で常識的なものです。
しかし一方では、常に矛盾を孕んでいます。徳川将軍は天皇から「将軍宣下」を受けて任命されるのですから、天皇が上位にいるわけです。しかし実際には国政の実権は幕府にあり、武士階級のみならず、士農工商を含めたピラミッドの頂点は、征夷大将軍という訳ですから二重構造です。幕府が元気な内は、この「本音と建前」の使い分けを、武士は心の中でしてきたのでしょうが、幕府の権威が弱くなるに連れて「やはりこの構造はおかしい」と変心していった訳です。同様に諸藩の藩士は、幕府から見れば陪臣ですから、天皇と藩主との対比にまで降りてきます。

 「寺田屋」事件での有馬と奈良原の会話には、思想の過渡期の状態がはっきり現れています。この後幕府の力は急速に衰え、「大政奉還」で政権を投げ出しても流れは止められず、遂に倒れることになります。そして倒れたのは幕府だけではなく武家社会の機軸であった、封建制度まで瓦解してしまうのですから、時代の流れとはいえ、思想の力の恐ろしさを痛感します。


 寺田屋の場面に話を戻します。有馬と奈良原の押し問答が続いていると、有馬の横にいた田中謙助が、激昂して叫びました。

「聞かんぞ。こうなった以上は、何と言われても聞かんぞ!」

次の瞬間、「上意!」と叫んで道島五郎兵衛が抜き打ちに斬りつけると、田中は眉間を唐竹に割られて昏倒しました。こうなってしまっては、もはや止まることはありません。
行き着くところに向かうまでです。(次回に続く)