寺田屋騒動  「起」

 「島津久光肖像画」 尚古集成館所蔵品


 薩摩(鹿児島)は、幕末の維新革命時に偉人達を綺羅、星の如く輩出しました。
西郷隆盛大久保利通を筆頭に、上げればきりがありませんが、この日本最南の地(当時沖縄は、はっきりとした日本領土ではないので)から、これほど多くの革命家、思想家、政治家が生まれたことは奇跡的です。現在でも鹿児島の人々は、この英雄達を尊敬し、その偉業を誇りに思っていますが、一つだけ彼らの心に暗い影を落としている出来事があります。それは文久二年(1862年)四月二十三日に、京都「寺田屋」で起こった事件です。
詳しい経緯を説明は省略しますが、何故「暗い影」と書いたかといいますと、この惨劇の双方が同じ薩摩藩士であり、同じ尊王思想を持った「精忠組」※の同志だったからです。

 しかし感情を抑えて冷静にこの事件の記録を見ていると、この事件の本質が現れてきます。それは当時、尊王思想が染み込んでいた「武士の心」の葛藤です。
長文になりそうなので、四回に分けて書いていこうと思います。
 
 事件の当日に薩摩藩有馬新七、田中謙助、橋口壮助、柴山愛次郎ら精忠組左派グループは、尊王派の志士・真木和泉守保臣、田中河内介父子らと共に、京都伏見の旅館「寺田屋」集結しました。目的は、尊攘討幕の先駆けに、京都所司代酒井忠義と関白九条尚忠を襲撃して討ち取ることでした。この頃、京都藩邸にいた薩摩藩主の実父で実質的最高権力者・島津久光は、この計画を知り激怒します。久光は幕府の改革を目指していましたが、方法としては公武合体止まりで、倒幕までは考えていません。また統制好きの久光ですから、この挙に長州藩の志士と、浪人志士が関わっていることにも不満がありました。
久光は直ぐに、側近の堀次郎(後の伊地知貞馨)に事の収拾を命じ、指示は二つ。
「一、首謀者を久光のもとに連行して、自ら説諭するとのこと。二、従わぬときは、臨機応変の処置をとること」
二はこの場合、上意討ちも止むを得ないという意味です。堀はこれに従い、リーダー格の有馬新七と親しく、一方でいざというときの為に武技に優れた者を選びました。選ばれたのが、大山格之助(綱良)・奈良原幸五郎(繁)・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助、さらに志願した上床源助の九名です。堀も賢く、一、二、の両方の場合を考えてのことでしょうが、結果はこの人選が事件をより悲惨なものにしてしまいます。(次回に続く)



※精忠組(或いは誠忠組)は後年名付けられたもので、当時はこのように呼ばれてはいないという説があります。島津茂久(忠義)の書状の中の「誠忠を尽くし候様」や、大久保利通の手紙の中の「精忠士面々中」から、採ったものではないかということです。