井上馨


 井上馨



 「井上馨」、幼名勇吉、後に文之輔、聞多(もんた)、一時養子となって姓が志道(しじ)、複雑なので井上馨で通し話を進めます。
 井上家はなかなかの名家で、先祖の五郎三郎就在は清和源氏の流れ、毛利家藩祖元成の重臣です。馨の父五郎三郎光享の頃は、周防国湯田村(現在の山口市湯田)で百石の知行を持っており、士分ですが兵農分離が進んでいない田舎なので自作農も営んでいました。この長州の小録の家で、次男として生まれた井上馨は、明治期に大蔵大輔となり、その後も要職を歴任し、政府の重鎮にのし上がっていきますが、日本政府第一号の政界汚職事件も引き起こしました。維新革命の功労者でA級は西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)、桂小五郎木戸孝允)といったあたりですが、馨はC級くらいでしょうか。大蔵大輔に選任された理由も、革命政府の大雑把なところで

「聞多(馨)は金を工面するが上手だった。女郎屋の金もあいつが作ってきた」

という程度のものだったそうです。尤も現代の大臣任命が、厳選されているとは到底思えませんから大同小異です。
維新後、前述した汚職事件「尾去沢銅山事件」の黒幕で、「藤田組贋作事件」にも関連し、山縣有朋の「山城屋和助汚職事件」と共に晩節を汚したと言われましたが、馨は武家出身ながら経済に対しては造詣が深く、民間企業を育成して国力を増強することには尽力しました。
この「経済眼」ですが、維新革命の時に身につけたものだと思います。


 文久二年(1862年)、長州藩は英国ジャーデン・マディソン商会から、十二万ドルで汽船(後の壬戌丸)を購入することになり、馨は用掛を命ぜられます。馨一向が横浜の宿屋に居ると、下田屋文吉という者が訪ねてきて、こう願い出ました。

「手前は横浜で店を出している、伊豆倉商会の番頭佐藤貞次郎という者に頼まれてきました。汽船購入の為の洋銀(外国紙幣)の両替を、全て伊豆蔵にお任せ願えないでしょうか。伊豆蔵は手数料を一文も頂きませんので」

馨は不審に思います。商人が利益を得ないというのを信じられなかったからです。すると文吉は答えます。

「ごもっともなお疑いですが理由はこうです。十二万ドルもの洋銀を一時に買取れば、相場が暴騰いたします。そうなれば伊豆蔵の買入れる商品の値段も暴騰して、大変困るわけです。毎日五千、一万と少しずつ購入すれば、相場には影響が無く、それだけで伊豆倉は商売に支障がないので儲かるという訳です」

現代人が聞けば至極常識的なことですが、馨は百五十年前の武士ですから、腰が抜けるほど感心しました。なるほど商売とは、経済とはこういう物なのかを悟ったわけです。武芸も学問も大したことのない馨でしたが、機転が利くというか、妙に直感の鋭いところがありましたのでやはり只者ではありません。勉強が良くできても、商売の才覚や直感は持って生まれた物ですから、後天的に仕込むことは出来ません。
 確かにこの一件で伊豆倉は、直接利益を上げていなかったでしょうが、その後は長州藩絡みで相当儲けました。すっかり長州藩の信頼を得て、馨一向も自分の家の二階に住まわして、遊興費まで提供したのですから、商魂逞しいと言わざるを得ません。馨もこの時に、賄賂の癖がついたのでしょうから、余計なおまけも貰ってしまいました。


 馨の「機転が利く」才能が発揮する逸話があります。

文久二年十一月、馨と久坂玄瑞高杉晋作ら同志十数人で、外国公使を襲撃する計画が持ち上がります。相談場所の品川の女郎屋土蔵相模に集まりますが、軍資金が百両程必要になり、金の工面を馨がすることになりました。
一体、この連中に限りませんが、当時の志士はよく女郎屋などで打合わせをします。当然別の場所でも構わないわけですが、国事の為に身を賭して働いているとはいえ、血気盛んな若者ばかりですから、理由はいうまでもありません。多少は多目に見てやらねばなりませんが、実際この軍資金百両の内の六十両は、土蔵相模の借金だったのですからやれやれです。
馨は藩邸に帰り、矢倉頭人(会計責任者)の来島又兵衛に、学資と偽って借金を願い出ますが、過去にも学資を遊興に使ってしまった前科があるので、猛烈な叱責を受けることになりました。又兵衛は会計責任者だけあって、木訥頑強な性格ですから、馨も叱られるのは読筋です。そこで馨は又兵衛の馴染み女が土蔵相模に居ることを利用して、事前に女が金の無心をしている旨の偽手紙を作り、そっと又兵衛に渡しました。又兵衛のような性格に限って、女の願い事にはからきし駄目ですから、機峰を挫かれ黙り込んでしまうと、馨はおもむろに言います。

「ところで、先刻お願いいたしました、百両の件ですがどうしても必要で」

又兵衛も弱みがありますので、遂に根負けして藩費ではなく、自分の懐の金を貸してやったそうです。要領の良さも上手な世渡りの術ですから、馨の当意即妙な才能がこの一件に発揮されています。


 馨は晩年は老齢のせいもあってか、大変怒りっぽくなり「雷親父」のあだ名で呼ばれていましたが、信頼を得ていた渋沢栄一がいつも「雷親父」の堤防になっていたので、栄一は「避雷針」と呼ばれていたそうです。
なるほど上手な命名と、当時の人のユーモアセンスに感心します。


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