寺田屋騒動  「結」


大久保一蔵(利通)


 寺田屋の同志達は、京都錦にある薩摩の藩邸に送られました。名前を上げていませんでしたが、この同志の中には、大山岩次郎(巌)、西郷慎吾(従道)、篠原冬一郎(国幹)、永山弥一郎など、戊申戦争に参戦し維新後も明治新政府の要職についた人物もいます。

 まず島津久光寺田屋のメンバーの挙に呼応して、挙兵を企てていた長州藩の藩邸に、堀二郎を派遣し、寺田屋の事件の顛末を知らせます。長州は藩を上げてこの計画を応援していたので、当時長州藩邸には久坂玄瑞、楢崎弥八郎、品川弥二郎など吉田松蔭門下生を中心に、多数の藩士が集結していました。長州藩はこの知らせで計画が未遂に終わったことを知り、ここに至っては知らぬ振りで鉾を納めようとしました。この報告を聞いて統制好きの久光は、長州藩に対して不快感を持ちます。長州や浪人志士の扇動で、薩摩藩士も乗せられたと思ったのでしょうが、この感情が陰惨な処罰を生んでしまいます。

 一夜明けて文久二年(1862年)四月二十四日、重傷でしたが命を取り留めていた、田中謙助、森山新五左衛門に久光は切腹を命じました。寺田屋の事件では使者に抵抗したことを重罪と裁定したのでしょうが、田中はともかく、森山は同志の危機を察知して事情を知らずに乱闘現場に飛び込んだのですから、武士として当然の行動です。使者で唯一の犠牲だった、道島五郎兵衛を刺した殺した、橋口吉之丞が罪に問われなかったのも不可解です。反逆者の有馬新七を一緒に殺したので、プラスマイナス・ゼロということでしょうか。
しかし田中謙助と森山新五左衛門の二人は従容として命を受け、血塗れの身体を拭い、御所の方角を拝し、国の方角を拝して、重傷の身とは思えないほど見事な切腹をしました。三日後の二十七日には、何の咎めもなかったのですが、山本四郎が腹を切ります。理由は定かではありませんが、何か憤ることがあったと思われます。

 森山新蔵西郷隆盛らと共に、舟で薩摩に向かう途中で息子新五左衛門の死を知らされます。慰める西郷に対して新蔵は笑って語りました。
「武士らしく戦い、武士らしく腹を切った、誉めてやりたいと思います。私は満足しています」
しかし後日、西郷が少し目を離した隙に新蔵も腹を切ってしまい、遺書は無く辞世の句だけが残されていました。この句を読めば自殺の理由が、愛する息子の死を悼んでということに間違いないと分かります。

「長らへて 何にかはせん 深草の 露と消えにし 人を思ふに」


 寺田屋の計画に参加した同志の内、他藩士はそれぞれの藩が引き取ましたが、問題は浪人志士です。
中河内介は浪人とはいえ、正六位下河内介の官位を持っていますので、薩摩藩では鄭重に扱ったでしょうが、逆に影響力が有るため厄介でもありました。そこで久光と重臣達は腹黒い企みをします。河内介と仲間三人(養子佐馬介、千葉郁太郎、中村主計)を、薩摩へ護送する舟の中で誅殺し、遺体を海に棄ててしまうことです。しかもこの任務を寺田屋の同志に命じるという惨いものでした。こんなことは誰でも躊躇しますので、クジで決めることになり柴山龍五郎が当たってしまいました。柴山は同志のリーダー格だったので、河内介とも特に親しく、苦しんでいると、柴山の弟・是枝万助(柴山矢吉という名であった説もある)が代わって引き受け河内介らを斬りました。遺体は手足を縛り海に遺棄し、後日小豆島に流れ着いたそうです。万助はその後、この件を思い悩み精神に異常をきたして、一生廃人となってしまいます。

 幕末は殺伐とした時代ですから、非業の死を遂げた人物や無惨な事件が沢山ありますが、これほど背徳的な事件を私は他に知りません。後に西郷隆盛は、流刑地徳之島から木場伝内に宛てた手紙で、田中河内介の死を悼み、藩の非道な処置を痛烈に批判しています。文中には
「薩摩はもう勤王の二字を唱えることは出来ますまい。御上よりこのことを問われたら、どうお答えになるつもりでしょうか。これまではとんと芝居でした。今後は見物人もありますまい」
と書いてあり、文末にはこうあります。
「もう、馬鹿らしい忠義だてはやめにします。お見限り下さい」
西郷と島津久光とは、折合いが悪かったのですが、この件で決定的になったと思います。西郷は終生、久光と和解することはありませんでした。


 もう一つ、逸話があります。
明治初頭、天皇は維新の功労者で政府の高官となっている人達を集めて、食事会を開きました。その時、天皇はこのように尋ねられました。
「河内介はどうしているだろうか。元気であれば、その方達と同様に、ひとかどの働きをせぬわけはないのだが」
天皇は幼い頃、中川大納言忠能の家で誕生し河内介がお傳役をしていたので、懐かしさから尋ねられました。その場の者達は皆答えに窮していると、小河一敏が進み出て言上しました。
「河内介はしかじかのことで、薩摩によって殺されました。その時ことを企てたのは薩摩藩当局者だった内務卿大久保利通でございます」
その場にいた大久保は、一言の反駁もしなかったそうです。小河は元岡藩士で、当時は寺田屋の同志と呼応して挙兵する手筈でしたが、事件があり沙汰止みとなっていました。
しかし大久保は、寺田屋に使者を送る時も藩邸には不在で、事件の前には事を鎮めようと奔走しています。事後の処理については、多少関わったかもしれませんが、久光の命令を覆す力は無かったでしょうから、責任を押し付けるのは酷です。大久保の生涯を見ると、決して非情な人間ではないですから、目的を達成するために、涙を飲んでいたのではないでしょうか。ある意味で大久保の強靱な意志の力を痛感します。


 寺田屋事件で死んだ六人と切腹した三人は「伏見殉難九烈士」と称されて、薩摩藩菩提寺である大黒寺に葬られました。維新革命は紆余曲折ありましたが、結局は彼らがやろうとしていた倒幕、天皇を中心とした新政府樹立となったのですから皮肉なことです。維新後は皆、官位を追贈されましたが、何か取って付けたようで、慰めになるとは到底思えません。
 「九烈士」は国の将来を憂い、国事に挺身して死んでいったわけですが、維新後の政府高官の汚職事件などを、あの世から見てどう思っていたのでしょうか。
とまれ、現代に至っても政治家や官僚の汚職、横領、贈賄などが後を絶ちません。

 
彼らは、「おはんらに頼み申す」と言って、死んでいったわけですから。