2008-01-01から1年間の記事一覧

岡田以蔵宜振

「撃刺矯捷なること隼の如し」天稟の剣才があり、大男だったのですが動きが俊敏だったので、岡田以蔵の剣捌きはこのように例えられました。 以蔵(諱は宜振)は、土佐香美郡岩村の郷士岡田義平の長男として生まれました。義平が足軽として徴兵されてから、城…

人斬り

桐野利秋 (中村半次郎) 万延元年(1860年)三月三日、大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されると、幕府の権威は急落しました。一方、京では尊王攘夷派が台頭し、「天誅」と称する暗殺が続出するようになり治安が悪化します。多くは井伊が行った政治的弾圧「安…

立花宗茂 後記

「立花宗茂」に関連することを、何回か書いてきましたが、途中で子供の運動会などもあり(ブログとはまったく関係ないですが)、すっかり虚脱してしまいました。 疲れの原因は、書くことを考えていたからでありません。宗茂の事は、これでもまだ書き切れてい…

立花宗茂 その参

「立花ぎん千代」 ゲームソフト「戦国無双2」より (何故か最近こればかりですが、ゲームおたくではありません、画像がないので・・・) 慶長五年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の結果は、皆さんご存知の通り東軍の勝利となりましたが、西軍に属していた立花宗茂は決…

立花宗茂 その弐

「立花宗茂」 ゲームソフト「信長の野望」より 「立花宗茂」のことを書こうと始めたのですが、道雪と紹運の事に時間が掛かりすぎて、まるで「パパ」に主役を取られた、「バカボン」のようになってしまいました。まあ、くだらない冗談はさておき、本日から主役「立…

立花宗茂異聞 「高橋紹運」その弐

岩屋城跡石碑 「筑前国続風土記」は筑前国福岡藩士で、儒学者貝原益軒が元禄元年(1688年)に編纂した記録です。三十巻を越える大著の中の「御笠郡岩屋古城」編に、高橋紹運が籠城戦をした「岩屋城の戦い」が、詳しく書かれています。文語体ですが、比較的読…

立花宗茂異聞 「高橋紹運」

「高橋鎮種入道紹運」 ゲームソフト「信長の野望」より 大友宗麟の家臣、高橋氏は二家あります。 元々は宗麟の家臣・高橋鑑種(後の入道宗仙)が当主の家でしたが、永禄十年(1567年)に宗麟との諍いで謀反を起こします。その原因というのが呆れることに、宗麟が…

立花宗茂異聞 「立花道雪」

立花鑑連入道道雪像 立花宗茂の義父「立花鑑連入道道雪」は、もともと大友家の一族で、戸次(べっき)氏と称していましたが、鑑連の代に筑前糟屋郡立花城の城主となり、立花の姓を名乗るようになりました。 鑑連は晩年、入道になり道雪と名乗りますが六三の…

立花宗茂

立花宗茂像(福厳寺蔵) 更新を一日休んでおりましたが、力を蓄え、満を持して、私の大好きな武将「立花左近将監宗茂」の事を書きます。 「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ…

直江山城守兼続

直江兼続所用「金小札浅葱糸威二枚胴具足」 「陪臣にして、直江山城、小早川左衛門、堀監物杯は天下の仕置をするとも、仕兼間敷(しかねまじき)ものなりと、称誉せられけり」(名将言行録) 直江山城守兼続を称して、豊臣秀吉が語った言葉で、天下の政治を…

伊達政宗

伊達政宗像「仙台市博物館所蔵品」 伊達政宗は仙台の人に大変人気があるので、申し訳ないと思うのですが、私はあまり好きになれません。 大雑把にいうと、なんとなく振る舞いに、インチキ臭い感じがするんです。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏征伐の…

戦国武将株式会社

昨晩は床に入ってもなかなか寝付かれなかったので、妙なことを考えていました。 何を考えていたのかというと、私が仮に会社経営者だとして、部下にどんな戦国武将を使うかということです。当然ですが織田信長、徳川家康などは恐れ多くて、雇用は出来ないので…

蒲生飛騨守氏郷

蒲生氏郷像 (会津若松市立会津図書館所蔵品) 下世話な政治論議に二回分も使ってしまいましたので、また元に戻して歴史ロマンを書きたいと思います。「武士の忠義」というテーマを再三取り上げてまいりましたが、忠義心の源は「武士道」の観念を発露とする…

天下分け目の「衆院選」

本日、麻生太郎が第92代の内閣総理大臣に就任しましたが、遅かれ早かれ政権をかけた、自民・民主一騎打ち(まぁ、他にも党はありますが...)の衆院選となりそうな雰囲気です。前回予告した「歴史を遡って衆院選を占う」をしたいと思い、昨日より現状と類…

自民党総裁選

今回は少し趣向を変えて、昨日の自民党総裁選のことを書きます。 結果は大方の予想通り、麻生太郎の大勝となりましたが、無選挙だった民主党に比べれば多少の話題作りにはなったようです。選挙戦前から麻生大優勢とマスコミで伝えられておりましたが、他の候…

大石内蔵助と堀部安兵衛

「大石内蔵助良雄像」 赤穂大石神社所蔵品 「武士の忠義」で何と言っても一番有名なのは「忠臣蔵」の大石内蔵助良雄ですが、討入り前にこんなエピソードありました。 大石内蔵助は仇討ちの前に、まず主君・浅野内匠頭長矩の弟・浅野大学長広を立てて浅野家再…

武士の起源 その五

「武士職能論」「国衙軍制論」はもう何度も取り上げましたが、ここで詳細を説明するのはもうやめます。だんだん辣韮の皮を剥くような記述になってくるので、以下はWikipediaに両説の記述が簡潔に書かれているので、「武士団」で検索して参考にしてください。…

武士の起源 その四

平将門像 前回「平将門は武士ではない」で腰を抜かしたと書いたのはちょっと大袈裟でしたが、少なくとも椅子からは落ちました。刀を差し、鎧を着て、馬に乗っているからといったビジュアルで、武士だと思った訳ではなく、将門の生態が間違いなく武士だったか…

武士の起源 その参

武士の忠義の研究をしていたのに、すっかり脇に逸れたままになってしまいました。主題が消えて枝葉が広がる、下手なプレゼンの代名詞のようですが大丈夫です。武士の忠義は、自分自身の最も重要な研究課題なので必ずやりますので、もう少々お待ち下さい。 何…

武士の起源 その弐 

『後三年合戦絵詞』の八幡太郎義家 前回書いた「職能」武士起源論の異論を書こうと思っていたら、同じくWikipediaにこの説の異論があったのを見落としていました。 「職能」起源論の限界 「職能」起源論では地方の武士を十分説明できるわけではない。確かに…

武士の起源

いきなり余談ですが、私は家にパソコンを置いていないので、夜自宅でコピー用紙の裏紙にこのブログの原稿を書いて、翌日職場で仕事が終わった後アップしています。年号はうる憶えなので「○○年」などと書いておき、姓名の漢字や官位なども資料が無いものは翌…

武士の忠義

今回は武士の忠義について研究したいと思います。まあ、研究というほど大袈裟なものでもないのですが、以前の私はどの時代の武士も、主従関係は「忠臣蔵」の浅野内匠頭と大石内蔵助の様なものだと思っていました。多分に、テレビの時代劇(特にNHK大河ドラマ…

山木判官兼隆

山木判官兼隆を祀る寺(法名は香山寺殿興峰兼隆大禅定門) 山木判官平兼隆は伊勢平氏の祖・平維衡の末裔で、父は従五位下和泉守信兼です。京にいる頃も判官(検非違使)だったのですが、罪を得て伊豆国山木に流されて来ました。流罪の原因はよく解っていない…

伊豆山神社

私の母は、生まれも育ちも東京だったのですが、齢六十を過ぎてから、都会の雑踏に嫌気がさしたのか、田舎暮らしがしたいと家を処分して、湯河原に転居しました。JR湯河原駅を降りて、熱海方向に五百メートル程歩いたところにある千歳川が、ほぼ神奈川県と…

坂崎出羽守

岡山城 坂崎出羽守成正は岡山備前の宇喜多家の一族で、姦雄といわれた宇喜多和泉守直家の弟安心入道忠家の子です。当時、宇喜多左京亮と名乗っていた成正は、太閤秀吉没後の慶長四年(1599年)、有名な「宇喜多騒動」で主筋で従兄弟の宇喜多中納言秀家と対立…

千姫

千姫の墓 千姫は慶長二年(1597年)に徳川家康の子秀忠と、織田信長の妹お市の方と浅井長政の三女お江(小督)の間に生まれた女で、慶長八年(1603年)に七歳で太閤秀吉の一子豊臣秀頼に輿入れしました。お江と秀頼の母茶々(淀殿)は姉妹ですから、二人は従…

傳通院

傳通院本堂 私の家の菩提寺は、文京区小石川の傳通院というお寺です。手前味噌となってしまいますが、なかなかの由緒ある寺です。 応永二十二年(1415年)浄土宗第七祖了誉が開山し、当初は無量山寿経寺という名で呼ばれていましたが、慶長七年(1602年)八…

司馬史観

十年程前から歴史書や歴史小説に傾倒し、約一年で司馬遼太郎の全作品を読破しました。その後は海音寺潮五郎や吉川英治、古いところでは幸田露伴などを読み漁り、「史記」「平治物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」「信長公記」などの史伝の現代語訳を読みました…