武士の起源 その五

 「武士職能論」「国衙軍制論」はもう何度も取り上げましたが、ここで詳細を説明するのはもうやめます。だんだん辣韮の皮を剥くような記述になってくるので、以下はWikipediaに両説の記述が簡潔に書かれているので、「武士団」で検索して参考にしてください。

私の誤解を告白すれば、まず次の2点が原因でした。


1.武家社会の基礎を築いた、鎌倉幕府(東国武士団)の社会構造を見てから、時代を遡っていたこと。
2.武士=勇猛、公家=軟弱という固定観念を持っていたこと。


1.については、歴史は結果が分かっているので、その視点で過去を振り返ると客観性に乏しくなり、「こうなったのは、これが原因だろう。」と勝手に思いこんでしまう事です。2.についても同様で、鎌倉時代以降の公家の政治的な失墜ぶりは、目を覆いたくなるほどお粗末で、希に優秀な人材が出ても既得権益固執した権威主義によって、何をやってもうまくいっていませんから、このように思い込んでいたのでしょう。
このような固定観念で正確に見ていなかったのに、こんな難しいテーマを取り上げたことに反省はしていますが、内心は「別に、いいジャン。」と開き直る気もあります。読んでいただいていた方には、急に投げやりになったと、思われてしまうかもしれませんが、どうぞお許し下さい。

 「武士の起源」をテーマにしたのは、「武士の忠義」「武士の気質(カタギ)」「武士の一分」などの性格が、どんな環境で発生したのかを知りたかったからですが、だんだん目的から外れてしまい、学説論争の大波に飲まれ漂ってしまいました。しかし今まで余り読んでいなかった、学術的な本を沢山読みましたので、大変勉強にはなりました。
 
 歴史学者は新説を学会やシンポジウムで発表して、過去の説を覆すのが仕事ですから、論争になるのは多いに結構ですし、現実直視でロマンチズムを感じる必要もないですが、私はただの歴史ファンなので、歴史の逸話の中にあるロマンが大好きです。確かにロマンと言っても、武士の時代は刀を差して、戦ばかりしている時代が長いので、人の心も殺伐としていたでしょうし、民も塗炭の苦しみで過ごしたのも分かっています。しかしそれも含めて、その時代の人々の喜んだり、悲しんだり、悔しがったりする生態は、現代の自分達の中の慣習や思考形成の元となり、脈々と受け継がれているのは間違いないと思います。
また「歴史は繰り返す」とよく言われていますが、現代社会のごく身近な仕事(職場)や家庭でも、歴史小説で読んだようなことが頻繁に起こります。過去があって今があり、先祖がいて自分が存在するというような、当たり前の事を歴史小説で再認識した気がします。


 時代の「心」を感じて、歴史を紐解くのは決して間違った手法とは思っていませんので、今後もこんな調子でやっていきたいと思います。次回から「武士の忠義」に関する逸話を取り上げていきたいと思います。書いている内にまた再発見があるかもしれませんし。


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