武士の起源 その四

 

 平将門


 前回「平将門は武士ではない」で腰を抜かしたと書いたのはちょっと大袈裟でしたが、少なくとも椅子からは落ちました。刀を差し、鎧を着て、馬に乗っているからといったビジュアルで、武士だと思った訳ではなく、将門の生態が間違いなく武士だったからです。


 桓武天皇の子・葛原親王の子孫の高望王臣籍降下で平姓を賜り、上総介となって阪東へ下ってきましたが、遙任(実際に赴任せずに代理をたてる事)をしなかったので土着するつもりだったと考えられています。つまり天皇の子孫といっても身分は低く、京は藤原氏専制で血族でなければ出世の見込みもなかったので、地方官で在地領主となり私領地を増やすつもりだったのでしょう。この高望王の孫が将門ですが、この頃将門一族は相当な私領地を持ちで大豪族になっていました。自説を用いればこれが「在地領主」が戦闘集団も組織したので、武士の起源となるところですが、そもそも高望王軍事貴族で、国司として私領地紛争の調停や盗賊征伐を目的に関東に下向したわけで、ここが「国衙軍制論」に突っ込まれるところです。実は「在地領主」と一言でいってしまうと正確ではなく、私営田領主や私営田経営者、後の開発領主などがあり、税の徴収方法や国衙などの監督官庁(?)によって区別して考える必要があるのですが、これをまた書いているとときりがないので割愛します。


 その将門ですが一族内に紛争が起こったのが発端となり、後に朝廷にも背いて天慶の乱(将門の乱)を引き起こすわけですが、「将門記」では天慶3年(940年)の最期の戦いで

「而恒例兵衆八千餘人、未來集之間、啻所率四百餘人也。」

との記述があります。これは

「いつもは8千人の兵がいるのに、400人しか集まらず。」

という意味で、最期の方は戦況も思わしくなく兵が集まらなかったのでしょうが、いつも(恒例)は8千人の兵を集める動員力があったという事です。古い記録の人数に関しては多分に眉唾の部分もありますが、それにしても大兵力で、名のある郎党の記録もありますので、完全に組織された軍隊であったと思います。兵のほとんどが農民であったとの指摘もありますが、兵農未分離はこの後の時代も続きますし、戦闘力の比較も出来ないのですから批判には当たらないと考えています。

 尊敬する元学習院大学学長、故・安田元久先生(考え方が合ったので尊敬することにしました)の記述に

「10〜11世紀にかけて、地方に広範に成長した在地領主が、自衛のための武力を養い、自衛組織として武士団を形成したことはいうまでもない。その武士団は、領主の族的結合を中核として結集された戦闘組織であり、はじめは個々に独立した小規模なものであったが、相互の闘争の繰り返しの間に、しだいにより強いものに統合されて大武士団へと成長していった。」

とありましたが、これこそ自分の考えている「武士像」でもあり、「将門が武士である」と思う所以です。

また安田先生の別の記述に、

「この12世紀以降に見られる戦闘組織こそが、中世的な「武士団」の名に値するものと考えられる。この時代には都における武士の棟梁は言うまでもなく、また地方における豪族的領主などは、中小の在地領主層とのあいだに、所領の支配を媒介として、封建的な主従関係を作りだしつつあった。そしてそこに生まれたヒエラルキーを基軸に、強い団結を持った戦闘組織が生まれた。これが中世的武士団の成立に外ならない。」

そう、ここで書かれているヒエラルキー(階層構造)が後の武家社会の構造の機軸となり、鎌倉幕府以降の封建制度の確立にまで至り、特に主従関係の性格形成に重要な役割をしたと考えています。

 とまぁ、すっかり自信を取り戻したように書いてきましたが、やはりこの説にも弱点があり、それも解りました。結論からいってしまえば、今まで自分の考えてきたことが、全て否定されたわけではなく、他の学者の説が理解できたということです。次回はその辺を書き、この長かった研究の締めくくりにしたいと思います。


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