大石内蔵助と堀部安兵衛


大石内蔵助良雄像」 赤穂大石神社所蔵品



 「武士の忠義」で何と言っても一番有名なのは「忠臣蔵」の大石内蔵助良雄ですが、討入り前にこんなエピソードありました。

 大石内蔵助は仇討ちの前に、まず主君・浅野内匠頭長矩の弟・浅野大学長広を立てて浅野家再興しようと運動しておりましたが、江戸にいる堀部安兵衛ら急進派は、内蔵助の居に訪れたり、手紙を書いたりと、盛んに仇討ちの催促を行っていました。内蔵助はまずはお家再興が第一と軽挙妄動に走らないよう、安兵衛らを説得しようしますが、焦れた安兵衛らはお家再興派の江戸家老・安井彦右衛門の元に押し掛けて、

「大夫(内蔵助)のおしゃることはもっとものようですが、お家のことを思案していては、亡君の御鬱憤をお晴らしすることはできぬことでござる。大学様をお立てになるといっても、もし亡君ご生前に大学様討ち取るべしとのご命令があれば、躊躇なく従うのが我々でござらぬか。とくとご勘考くだされ。」

と迫ったとのことです。細井広沢が編集した、安兵衛の日記「堀部武庸筆記」では、その後、同様の内容がふくまれた手紙も内蔵助の元へも出していることが記録されています。

この安兵衛の考え方は大変分かりやすい武士の忠義心ですが、内蔵助の方は少々複雑で、まずはお家の再興を計ること、その次に叶わない場合に敵討ちをするという二段構えです。以前に「坂崎出羽守」のことを書いた時のように、「家老クラスの臣はお家存続を先ず考える。」といった意味も有るでしょうし、旗本となっていた大学がこの事件で閉門謹慎となり、三千石の所領も召し上げられたので、名誉を回復したいとの考えのあったでしょう。この辺が同じ武士の忠義でも、立場や性格にもよって考え方の違いがあるものです。

 ただ、大石内蔵助の場合はもっと複雑な心境を秘めていたようです。というのも、そもそも事の起こりより見て、吉良上野介が「仇」なのかどうかが問題です。例えば吉良上野介に主君・浅野内匠頭が殺されたのなら、これは間違いなく「仇」となりますが、実際に刃傷に及んだのは内匠頭の方ですし、内匠頭が上野介に、何かの恨みを持っていたと後世にも言い伝わっていますが、具体的内容の実証はできていません。内匠頭が発狂したのではないのなら、何かの恨みを持って斬りつけたということですが、これは「私闘」であり内蔵助達は仇討ちではなく「私闘」を引き継いだと考えるのが妥当です。しかし当時は武士の「私闘」は幕府の法で禁止されており、「仇討ち」は武士の名誉を守る行為として認められていたので、内蔵助は策を練って「仇討ち」に仕上げたと最近の研究ではいわれています。

 堀部安兵衛はもともとの赤穂藩累代の家臣ではありません。有名な「高田馬場の決闘」の活躍の噂を聞いた、浅野家家臣堀部弥兵衛が養子縁組も望み、当初は自分の家の中山家の存続を心配した安兵衛が固辞していたところ、主君・浅野内匠頭が異例だったのですが、中山姓のままでの養子縁組を認め、弥兵衛の娘・ほりと結婚して婿養子になりました。安兵衛は江戸小石川の堀内源太左衛門の道場で修行し、直ぐに免許皆伝となり師匠の代稽古をしたほどの剣豪だったそうです。しかし、一般に講談や映画で表現されているような、豪放磊落な性格で江戸在府組のリーダー格と思われている安兵衛ですが、実際には相当に理屈っぽい性格で、同輩からは煙たがられていたようです。この辺の性格も前述の『堀部武庸筆記』を読むとよく解ります。


 赤穂浪士の逸話は書き出すときりがないので、最後に「武士道」という観点で考えると、江戸時代中期となって「武士道」は形式的に完成しているので、武士の行動規範が、かなり複雑になっているように思います。これがずっと以前、鎌倉時代や戦国時代とかですと、刃傷事件を聞いたと同時に馬に乗って、吉良邸に討ち入る家臣もいたでしょう。戦闘という実践がなくなった元禄時代には、「武士の忠義」は論理的に分析され、心の中で如何に美しく自分を貫くかという世界に入っていったようです。


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