自民党総裁選

 今回は少し趣向を変えて、昨日の自民党総裁選のことを書きます。
 結果は大方の予想通り、麻生太郎の大勝となりましたが、無選挙だった民主党に比べれば多少の話題作りにはなったようです。選挙戦前から麻生大優勢とマスコミで伝えられておりましたが、他の候補は少しでも善戦をして、今後の政局でのポジション取りを良くしたいといった腹づもりでしょう。昨日テレビのニュースでのインタビューで、麻生太郎は、今回の総裁選の相手で、特に気になった人はと問われ、
石破茂は、なかなかいいことを言う。」
というような事を言ってましたので、泡沫候補(失礼)だったとはいえ、出馬の効果があったのではないでしょうか。負けることが分かっていても、一戦交えて存在をアピールするという作戦は、実はかなり昔から結構ありました。とことん戦えば負けること必定な場合でも、籠城などして抵抗し、一、二回の局地戦に勝ってから少しでも有利に和睦しようとすることは、戦国武将の有力な作戦です。
 

 天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いでは、羽柴秀吉の4万の軍勢に徳川家康織田信雄連合軍は1万8千で挑みました。戦力が大差なので、家康も最初から勝てると思った戦ではなかったようですが、黙っていては日の出の勢いの秀吉に飲み込まれてしまうので、乾坤一擲の大勝負にでたというところでしょう。結果は秀吉が信雄を懐柔して和睦してしまったので、大義名分を失った家康は兵を引くこととなります。その後秀吉は家康とも和睦しようと、使者を浜松城に送りますが家康は返答を渋ります。和睦は臣従する意味があるので、完全に負けてはいない家康は優位に事を運ぼうと、人質として次男・於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子にするために大坂に送っただけで、亀が甲羅に籠もるように和睦を拒み続けました。秀吉は家康の力を認めていましたので、力でねじ伏せることは利がないことと思い、嫁いでいる妹・朝日姫を離縁させて家康の正室に差し出し、母・大政所までも人質として岡崎城に送るというウルトラCで、遂に家康から臣下の礼をとることができました。小牧長久手の戦いの勝敗は引き分けでしたが、局地戦の長久手の戦いでは、家康軍が大勝していたので、6分4分で家康が勝ったと判定され、その後の豊臣政権では五大老筆頭として、外様ながら絶大な力を誇示していきます。


 小牧長久手の戦いを例え話として用いましたが、これは今回の総裁選より前回の福田・麻生の一騎打ちの方が似ているような気がします。前回は福田康夫が勝ちましたが、思いのほか麻生太郎が票を集め力を誇示したので、福田は懐柔のための入閣を誘いますが、最初の組閣には麻生は参加しませんでした。善戦したという実績を信用手形に変え、好機到来に備えて潜伏し、結局今回の総裁選では戦う前から有利な状況を作っていましたから、作戦成功といったところでしょうか。


 さて、次はいよいよ総選挙が間近に迫ってきた様子ですが、今度の総選挙は自民・民主の政権をかけた天下分け目の関ヶ原となります。「歴史は繰り返す。」と以前も書きましたが、今度の総選挙の行方も歴史の中に既に結果が出ているかもしれません。次回はこれに似た事例がないか、歴史を遡って探してみようと思っています。



関ヶ原の戦い」屏風



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