武士の起源 その弐 

 
 『後三年合戦絵詞』の八幡太郎義家



 前回書いた「職能」武士起源論の異論を書こうと思っていたら、同じくWikipediaにこの説の異論があったのを見落としていました。


「職能」起源論の限界
「職能」起源論では地方の武士を十分説明できるわけではない。確かに源平藤橘といった貴族を起源とする武士や技術としての武芸については説明ができるが、彼らの職能を支える経済的基盤としての所領や人的基盤としての主従関係への説明が弱すぎる。こうした弱点を克服する議論として主張されはじめたのが、下向井龍彦らによって主張されているように、出現期の武士が田堵負名としての経済基盤を与えられており、11世紀の後期王朝国家に国家体制が変質した時点で、荘園公領の管理者としての領主身分を獲得したとする議論である。(→国衙軍制)


 国衙軍制は知ってましたが、やはりこの説でもあまり納得出来ません。やはり私は地方の領主と使用人(百姓)の武力組織が、武士の起源である気がしてなりません。
 まず、「職能」起源論は源氏、平氏藤原氏などいわゆる源平藤橘臣籍降下をした一族なので、朝廷に関係が深く特別であるかの様に考えていますが、時代が進み連枝も増え、朝廷も以前の皇子・皇女の末裔だと言っても特別視する筋合いはありません。そのように考えた方が、藤原純友平将門らによる承平・天慶の乱の原因も納得できます。後年、平清盛の異常な栄達は白河天皇落胤だからという説もありましたが、これも白河天皇法皇となり死んだのが 大治4年(1129年)で、清盛の父・忠盛が死んで伊勢平氏一門の頭領となったのが仁平3年(1153年)ですので、その間に24年も経ち天皇が三人も変わっているのに今さら義理立てする筋合いは無いでしょう。清盛の栄達は、西日本を本拠地とし中国貿易で得た経済力と婚姻政策に起因していることに間違いありません。血筋は公家の世界では非常に重いことですが、大昔のしがらみよりも、現実問題として今すぐ役に立つ者を重用したでしょう。
また数々の書物にあるように、当時の公家は武士を夷か野蛮人と思い、傭兵か番犬の様に使っていましたが、もし血筋論でいくならあまりに酷い扱いだと思います。平氏が隆盛を極める前に、武士で最高の地位に達したのは源氏の八幡太郎義家ですが、院昇殿は許されましたが官位は正四位下どまりです。八幡太郎義家は河内源氏清和天皇の子・貞純親王の末ですので、遠い親戚で英雄だったらもうちょっと厚遇してもよさそうです。ずっと後年、後醍醐天皇は北条氏(鎌倉幕府)を滅ぼし建武中興をうち立て、久しぶりに天皇専制の国家を創りますが、最も働いた武将の楠木正成への行賞でさえ河内・摂津の守護のみ与え叙位さえありません。当時の公家で一流のインテリだった北畠親房でさえ
「朝敵を滅ぼしたのは天皇の威光で神意によるものである。武士共の力ではない。お味方申したおかげで家を滅ぼされないですんだのだから、皇恩と思うべきである。恩賞を望むなど不届きである。」
と言ったと「神皇正統記」にありますが、なんとも身勝手で傲慢な言い分でしょう。しかしこれが公家の武士を見る本心で、この時代でさえこの有様ですので奈良・平安時代は推して知るべしでしょう。

 以上の理由で「職能」起源説は納得がいかないわけです。次回は今回引用した「国衙軍制武士起源説」の異論を書いてみます。
「職能」起源説よりは、はるかになるほどと思うことも多いのですが、どうも疑問が残りましたので、研究したいと思います。



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