人斬り


   桐野利秋 (中村半次郎


 万延元年(1860年)三月三日、大老井伊直弼桜田門外で暗殺されると、幕府の権威は急落しました。一方、京では尊王攘夷派が台頭し、「天誅」と称する暗殺が続出するようになり治安が悪化します。多くは井伊が行った政治的弾圧「安政の大獄」の復讐の様なケースでしたが、次第に身分の低い志士が高名を立てる為、秩序無く暗殺を行うようになり、京の町は殺伐とした雰囲気になっていきました。
 この頃、暗殺の名人は「人斬り」の異名をもって呼ばれており、薩摩の田中新兵衛中村半次郎、肥後の河上彦斎、土佐の岡田以蔵佐幕派では新選組の大石鍬次郎がそれです。


 しかしこの中の一人、中村半次郎(後の陸軍少将桐野利秋)は、たまたま京の町で遭遇した、幕府の密偵(一説には兵学者)を斬った一件しか記録がありませんし、計画的な暗殺ではないので、仲間に入れるのは少し種別が違うような気がします。半次郎は維新後に、この暗殺を後悔して寝所でうなされたと伝わる話もありますし、この人の陽気で闊達な性格から考えても、人斬りのイメージにある「狂信的殺人者」ではありません。 


 肥後の河上彦斎は、元々肥後藩の家老付きの坊主で、そのため彦斎と名乗るようになりました。吉田松蔭の親友宮部鼎蔵から兵学の薫陶を受け、林桜園(熊本の学者、国粋主義者)に国学を学んだ、純粋な尊王攘夷主義者です。小柄な体格で道場の稽古はさっぱり駄目ですが、実戦では身を低く構え、片手で袈裟に斬る、居合抜きの達人だったそうです。彦斎は幕末の大物、佐久間象山を斬ったことで一躍有名ですが、実ははっきりと分かっている彦斎が関わった暗殺で記録に残っているのはこれだけです。熱烈な国粋主義・敬神主義の彦斎は一通りの学問もあり、何人か斬ったかもしえませんが、国事の為と信念があってのことですから、やはり「狂信的殺人者」ではありません。
 明治になってから、彦斎は捕らえられ死刑になりますが、罪状は殺人ではなく、政府への反乱に加担した容疑でした。実際には死刑になるほどの重罪ではなかったのですが、維新後も熱烈な攘夷思想が抜けない彦斎を、政府の高官が煙たくなって殺してしまったといわれています。


 田中新兵衛は鹿児島城下、前ノ原という町の薬種商の息子で、根っからの武士ではありません。やはり町人出身で、後に士籍を得た森山新蔵に紹介され、「誠忠組」の壮士らと懇意になり、時世を聞くことで憂国の情が起こり、国事に挺身するようになっていきました。当然ですが、武士になりたいという願望もあったでしょう。文久二年(1862年)四月、薩摩藩主の父・島津久光は、幕政改革を実現させるために京へ向かいますが、このとき新兵衛も薩摩を脱出して、京へ向かう途中で、領内では出来なかった二本差の姿になったと推測しています。薩摩藩士でもなく、ましてや武家浪人でもない新兵衛は、滞京を続けるために国許に居る頃から知合いだった、薩摩藩士の海江田武次の元に身を寄せることになります。新兵衛は一刻も早く、国事の為に働きたい、或いは手柄を上げて武士として認めてもらいたいと思っていたことでしょう。
 チャンスは以外と早く訪れました。安政大獄の時に井伊の腹心長野主膳の手先となって、志士の検挙に協力した九条家諸大夫・島田左近を暗殺する計画が持ち上がり、一味に新兵衛も加わることになりました。文久二年七月、木屋町の愛人宅にいた島田を新兵衛と薩摩藩士二人が急襲し、逃げた島田を新兵衛が追い詰めて討ち取ります。この一挙で諸藩の志士に認められるようになった新兵衛は、土佐の岡田以蔵らと共に、本間精一郎を暗殺、京都奉行所の与力渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞と次々に殺して、「人斬り」の異名で呼ばれるようになりました。
本間精一郎は幕府側ではなく、尊王攘夷の志士でしたが、大言壮語の徒で、薩摩や土佐の志士に嫌われて殺されたのですから、この辺でもう暗殺の対象がよく分からなくなってきます。

 文久三年(1863年)五月二十日、攘夷派の公家姉小路公知が暗殺され、新兵衛はその容疑で京都町奉行所で取調べを受けている時、突然脇差しを抜いて腹に突き立て、頸動脈を刎ねて自殺してしまいました。容疑を受けたのは、新兵衛の刀が事件現場に落ちていて疑われたからですが、十分な弁明もせずに死んでしまったので、この事件は維新史の謎の一つになっています。新兵衛ほどの手練れが、自らの差料を落としたり、また暗殺の手際が悪かった事もあるので、その辺が真犯人は別にいるのではないかと思われる所以です。取調べは便宜上ですが「薩摩藩士」として、白州ではなく座敷の縁で行われました。新兵衛はくどくどと言い逃れをすることを、「武士」らしくないと思い、最期に最も「武士」らしく死ねたことで、本懐を果たしたのだと思います。


 最後に岡田以蔵ですが、この人は次回に一回分を使って書きたいと思います。前述の者達の中で、最も「人斬り」の異名通りの暗殺名人でしたが、因果応報でしょうか最期は最も悲惨でした。


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