立花宗茂異聞 「高橋紹運」その弐


岩屋城跡石碑



 「筑前国風土記」は筑前国福岡藩士で、儒学者貝原益軒が元禄元年(1688年)に編纂した記録です。三十巻を越える大著の中の「御笠郡岩屋古城」編に、高橋紹運が籠城戦をした「岩屋城の戦い」が、詳しく書かれています。文語体ですが、比較的読みやすい文章なので、抜粋を交えて「岩屋城の戦い」の話を進めていきたいと思います。


 天正十四年(1586年)七月十四日、戦塵の火蓋が切って落とされました。


「終日終夜鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地もひびくばかりなり」(筑前国風土記


大激戦ですが紹運はよく防いで、寄せ手に甚大な被害をあたえ、寄せ手も調べ出して水の手を抑えるものの、城内の士気は衰えることがありません。しかし如何せん兵力か隔絶しているので、徐々に押されて外郭が破られ二、三の丸に退きました。寄せ手の大将島津忠長はいったん矢止めを乞うて、新納蔵人というものを使わし、主人大友宗麟の非道を説いて和睦を勧めます。紹運は矢倉の窓をひらき、なぜか麻生外記と偽名を名乗り


「仰せのごとき旨、紹運に申達までもござらん。総じて栄枯衰退この世に生きる者はまねかざるところ、古き例えを引くまでもなく、今の世の武家の衰退を見ただけでも明らかでござる。大友家もこの理をまぬかれず、今ここに衰弱してまいったが、貴家とて関白殿下(豊臣秀吉)のご親征あらば、衰亡踵をめぐらさぬでござろう。勢いつき、運衰うるによって、志を変ずるは弓矢とる身の恥辱でござる。松寿千年を保つとも、ついに枯死はまぬかれず、人生は朝露のごとし、武士はただ名こそ惜しくござる。降参思いもより申さず」(海音寺潮五郎氏著書より)


と返答すると新納は一言も返せず、敵方からも感嘆の声が上がりました。真の武士らしい立派な態度だと私は思います。

 その後も近くの荘厳寺の僧を使者にして和睦を説きますが、丁重にかつ凛乎として拒否しました。私は島津軍・連合軍が策略のために和睦を説いていたのではなく、紹運の武名を惜しんでいたのだと感じましたが、その後の話でそれを確信します。

 そして七月二十七日、交渉はついに手切れとなり、日の出から寄せ手の総攻撃が始まりました。紹運は自ら馬に乗り、寄せ手に突撃し、大太刀で十七人を討ち取り、城内では傷を負ったものには自ら気付薬を含まし、死者には懇ろに礼を言って合掌したそうです。
随分と奮闘していましたが、続々新手が繰り出る大軍ですので、諸口が破られ討死にするもの、深手を負って切腹するもの、最期の暇乞いと紹運のいる本丸に上がり切腹するものなど後を絶たず、ついに紹運も矢倉にのぼり

「屍をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名をとどむべき」

と辞世を残して腹を切りました。享年三十九。
籠城軍七百六十三人は全て玉砕し、一兵たりとも逃亡したり、敵に寝返ったりしたものはいませんでした。「筑前国風土記」には

「人臣の義を違へざるは、紹運平生の情深かりし故、旦は其忠義に感化せし故、一人も節義を失はざる成べし」

とありますが、紹運の人柄が偲ばれる記述です。
 紹運の遺体を島津軍の陣中に運び、調べてみると、具足の引合せに寄せ手の大将島津忠長宛ての手紙があり、披見すると「ひとえに義によってである。諒承してもらいたい」と書いてありました。これを読んだ忠長は、床几を降りて地面に突伏し

「たぐい稀なる勇将を殺してしまったものよ。この人と友であったなら、いかばかり心涼しかったろう。弓矢を取る身ほど、恨めしいものはない」

と近習ともども涙を流して遺体を丁重に弔ったそうです。私はこれほどまで敵将に惜しまれた武将を他に知りません。紹運はまさに、鎮西一、天下一の「義心」を持った武将だったと思っています。



 時を戻して、嫡男統虎(宗茂)を立花道雪に養子に出すときのことです。紹運は統虎と別れの盃を交わし、備前長光の太刀を与えこのように言ったそうです。

「以後わしを夢にも親と思うではない。父子の縁は今日限りと思え。いかなることがあって、今後当家と立花家が敵味方となるかも知れぬが、そなたは必ず道雪殿の先鋒となってわしを討取るよう。道雪殿は未練なことが大嫌いなお人じゃから、決して未練な所行があってはならぬ。もし、そちが不覚をして、道雪殿から離別を申し渡されることがあるかも知れぬが、その時は決してこの城に来ず、この刀で自害いたせ」(名将言行録)

戦国の世とはいえ厳しいことですが、言った高橋紹運も、聞いた立花宗茂も流石の武将と感じ入ります。



後記:
文中に挿入した貝原益軒の「筑前国風土記」は、インターネットで拝見した、福岡市にある「学校法人中村学園」の電子図書館にあったものを引用しました。「筑前国風土記」全巻の写本をPDFで保管してあり、同書は戦争の事ばかりではなく、福岡市周辺の農政など、風土に関することも記録されている大変重要な文献です。貴重な文献を公開していることに、敬意を表するとともに、参考にし引用させて頂いたことを、心より感謝申し上げる次第です。


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