立花宗茂異聞 「高橋紹運」


  「高橋鎮種入道紹運」   ゲームソフト「信長の野望」より



 大友宗麟の家臣、高橋氏は二家あります。
元々は宗麟の家臣・高橋鑑種(後の入道宗仙)が当主の家でしたが、永禄十年(1567年)に宗麟との諍いで謀反を起こします。その原因というのが呆れることに、宗麟が鑑種の実兄鑑実の妻に懸想して、鑑実を誅殺してこれを奪うという、とんでもないことをしでかしたからです。
「あろうことか、主にあるまじき振る舞い。兄の仇じゃ。」
となりましたが当然です。

鑑種は、筑前の秋月種真や肥前龍造寺隆信と結託し、中国の毛利氏とも連絡して、大友家にとっては未曾有の厄難を引き起こしますが、猛将・立花道雪自ら先陣に立つ活躍で鎮圧されました。鑑種は降伏して命を助けられますが、その所領は没収され、残ったのは小倉城一つになります。その後、鑑種の降伏を完全には信用していない宗麟は、重臣である吉弘鑑理の子・鎮種に新しい高橋家を興させ、高橋鑑種から召上げた所領をあたえました。
この鎮種が立花宗茂の実父で、名将の誉れ高い「高橋鎮種入道紹運」です。鎮種は立花道雪と共に大友家の両翼となり、他の九州大名の進入を防ぎ、中国毛利氏の侵攻をもくい止め、数々の武功を上げていきました。

 道雪が家督を娘・ぎん千代に譲った話は前に書きましたが、それから数年して道雪は鎮種の嫡男・統虎(後の立花宗茂)を養嗣子(家督相続人となる養子)にして、ぎん千代の婿にと請います。「長男なれば」と最初は拒んでいた鎮種でしたが、道雪のたっての願いを受け入れ、統虎を道雪の元へ養子に出しました。当時の家督制度を考えれば、長男を養子に出すことは異例中の異例ですので、これを受けた鎮種は、道雪と特別深い関係があったのだと思います。記録にはないので私の推測ですが、鎮種と道雪は常に連携して戦っていましたので、鎮種は年上でその武名を九州中に轟かしていた道雪を師事し、尊敬していたのではないかと考えています。また道雪も、鎮種の武将としての能力を認めていたので、嫡男・統虎の遺伝的な隠れた才能を見抜いていたのかもしれません。統虎十三の時です。


 天正六年(1578年)耳川の戦いで薩摩島津氏に大敗し、天正十三年(1585年)筑後猫尾城を攻撃中に立花道雪が病死すると、隆盛を誇っていた大友家も衰退の色が見えてきました。衰えの原因は、大友宗麟があまり行いのよくない殿様だったせいでしょうか、島津氏を筆頭に、九州の大名のほとんどが反大友勢力だったからです。
事態に窮した宗麟は大阪に上り、時の権力者豊臣秀吉に臣属を申し入れ、窮状も訴ったえました。かねてから九州平定を考えていた秀吉ですから、上機嫌でこれを認め

「よしよし、おれが行って島津も他の連中も征伐してやるぞ」

と答えます。秀吉は大阪城や自慢の金の茶室で接待し、宗麟もすっかり秀吉に信奉して心を許したのか宗麟は

「拙者の臣列に属する者で、高橋紹運とその実子立花統虎(宗茂)と申す者がおりますが、田舎者ながら武勇に優れ、忠義にも厚い者ですので、是非殿下のご家人となし給わりますようお願い申し上げます」

と推薦すると、秀吉は

「よろしい、おれが家人にしてやるぞ」

と答え朱印状を渡し、二人を直参の大名にしたと「紹運記」には記録されています。
これはどうゆう事でしょうか。二人にとって宗麟は、些か心許ない主人だったので、最後に酬いてやろうと考えたのかもしれませんし、あるいは二人の武功を知っていた秀吉が、自ら持ち出した話かもしれません。いずれにせよ、これで高橋紹運立花宗茂という二人の武将が、その名を中央で知られることになりました。書き忘れていましたが、道雪が死んで統虎は立花家の当主になっています。


 しかしこれでひと安心というわけにはいきません。秀吉は徳川家康と対峙し、まだ和解をしていないので、直ぐに九州平定に向かうことはできません。
一方の九州では、島津氏を中心とした反大友連合軍が、五万とも十万とも伝わっている、雲霞の如き軍勢で北侵をしていました。これに立ちはだかったのが、筑前岩屋城の高橋紹運、立花城の立花統虎、宝満城の高橋統増(統虎の弟)の三人の武将です。統虎は古くからの重臣、十時摂津を紹運のもとへ使わし、岩屋城は要害が悪いので、統増の宝満城へ移るように勧めますが、紹運は

「この度の敵の軍勢は目にあまる大軍故、どこで籠もろうとも運の開ける見込みはない。いずれ死ぬ身を、あちこちと移るのは恥である」

と答え動きませんでした。
そしていよいよ天正十四年七月、歴史に残る籠城戦「岩屋城の戦い」が始まります。
島津軍と反大友連合軍でその兵約五万人に対し、紹運の籠城軍はなんと僅かに七百六十三人。


この戦いの話は、次回にじっくり書きたいと思います。
岩屋城の戦いはまるで、クセルクセス1世率いるペルシャ軍十万人に対して、レオニダス王率いるスパルタ軍「300」人が立ち向かったテルモピュライの戦いを彷彿させますが、やはり結末は同様に悲惨なものとなってしまいました。


※「立花城」は、「立花山城」と書いてある記録もあり、どちらが正しいのか分からなかったので「立花城」と書きました。


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