立花宗茂異聞 「立花道雪」


  立花鑑連入道道雪像



 立花宗茂の義父「立花鑑連入道道雪」は、もともと大友家の一族で、戸次(べっき)氏と称していましたが、鑑連の代に筑前糟屋郡立花城の城主となり、立花の姓を名乗るようになりました。
 鑑連は晩年、入道になり道雪と名乗りますが六三のときに、七つの一人娘・ぎん千代に家督を譲りました。この段階でぎん千代は立花城主となり、「女大名」となったわけです。「女大名」というと、違和感を感じる人もいると思いますが、必ず男子が家督を継ぐ習慣が定められたのは、江戸時代に入ってからです。「女大名」で最も有名なのは、豊臣秀吉正室・茶々(誤解があるようですが、側室ではありません)が淀城城主となり、「淀殿」と呼ばれたことです。

 鑑連(道雪)は若いときから絶倫の武勇があり、多くの武功を残しましたが、四十五のときに雷に打たれ半身が不自由になってしまいました。しかし気力は衰えることなく、その後は輿に乗り、鉄砲と二尺七寸の刀(落雷のときの刀で「雷切」と呼ばれていた物)を携え、百人の壮士に担がせて敵に突進すれば、どんな強敵でも破れぬことはなかったそうです。その際には、三尺の棒で輿の縁をガンガン叩きながら「エイ、トウ、エイ、トウ」の掛声を出すと、先陣の兵は「すわや、例の音頭が始まったぞ」と励まされ、勇敢に敵をうち破りました。
私がその場面を想像すると、勇猛というよりはちょっと滑稽な感じもしますが、戦時の心理は現代人の想像を絶していますので、さぞかし兵士は奮い立ったことでしょう。


 道雪は戦闘の采配だけではなく、家臣の教育にも長けていて、常日頃このように言っていました。

「武士であるかぎり、弱い者はいない。もし弱いと言われるなら、その者のせいではなく大将の養いようが悪いのである。わしの家臣では士分はもちろん、雑兵、下郎にいたるまで、数度の功名を立てていない者はいない。もし他家でおくれ者の評判がある者がいたら、わしの家に仕えるとよい。必ず逸物にしてやる。」

その士の養いようですが、武功をたてたことの無い者には、

「武士には運不運がある。そなたはまだ運が向いてこぬのだ。あせって抜駆けし討死するようなことはあってはならんぞ。それこそ、わしに対して不忠である。必ず身を大事にして、わしを助けてくれよ。」

と慰め、酒を飲ませ、はやりの武具などを与えるので、その者は次の戦で人に遅れないように働きました。
かくして、少し武者振りが良くなってくると、戦のあと呼び出し、

「皆の者、見たであろう。あっぱれな働き、わしの目がね狂いはなかった。」

と賞辞してやったので、益々励んで働くようになったそうです。


 しかしその一方では、ある正月の戦で、年越しなので戦闘が無いと思った三十五人の兵が、一時国へ帰ってしまいました。道雪は激怒し、

「けしからん者共だ。在所まで追いかけ切り捨てて参れ。親のある者は親子ともども成敗しろ。」

と命じます。

「親まで成敗とは如何」

と家臣が諌言すると、

「戦さ場を逃げ出した子に、のうのうと対面する親も同罪じゃ。容赦するな。」

と親子ともに誅したとのことです。


 これでは先に取り上げた美談が台無しになるような、残酷な振舞いと思われるかもしれませんが、そうではありません。中国・孫武の兵書「孫子」を少しでも読んだことのある人なら、わかるかもしれませんが、軍規の厳正を保つためには、この過酷さは絶対に必要なのです。以前何かの本で読んだのですが、先の大戦で日本帝国軍人は厳しい軍規・軍律で統制されていましたが、中には心優しい隊長もいました。戦争終盤になって戦況が思わしくなくなったときに、軍規に厳しい隊は生き残る可能性が高く、心優しい隊長がいる隊は全滅することが多かったそうです。誠に神も仏もない無情な実例ですが、「生きるか死ぬか」「殺すか殺されるか」の日常では、残念なことに現代人のナイーブな感覚では生きてはいけません。

 春の日差しのように温かく家臣を愛し、雪山の吹雪のように厳しく軍規を守らせる、道雪はまさに恩威はせ持つ名将です。


 ある意味では、道雪の逸話のほうが、立花宗茂よりも面白い話が沢山あるのですが、きりがないのでこのくらいにして、次回は宗茂の実父「高橋鎮種入道紹運」の話をします。高橋紹運は道雪に勝るとも劣らない剛勇の士で逸話も沢山あります。
 私は一体、この狭い地域で、これだけの名将が立花宗茂という武将に関わって、同時期に登場した偶然を、歴史上の奇跡と感じずにはいられません。


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