立花宗茂


  立花宗茂像(福厳寺蔵)



 更新を一日休んでおりましたが、力を蓄え、満を持して、私の大好きな武将「立花左近将監宗茂」の事を書きます。

 
「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」(名将言行録)


 宗茂の魅力を、この「名将言行録」には明解に書いてあります。
少し補足をすれば、宗茂の知行地は、最高でも筑後柳河藩十三万二千石と小録ですから、兵の動員数は少なかったのですが、前述のように「戦へば必ず勝てり」でした。「寡をもって衆を制する」戦いは、往々にして源義経のような奇襲戦法を多く用いられますが、宗茂もやはり夜襲や火計、工夫をした鉄砲の連射などを得意としました。
 
 慶長二年(1597年)に始まる文禄・慶長の役は、豊臣秀吉が朝鮮に攻め込み、そこを占領して兵站基地とし、最終的には明国に攻め込もうとすることを企てた壮大な戦役です。
 この慶長の役の「蔚山城の戦い」で宗茂は、僅か八百の兵で明将・高策が率いる明軍二万二千に夜襲を仕掛け、七百の首を上げました。その後も恐れて潰走する敵を追撃すると、家老の小野和泉が「小勢をもって、深追いは危険でござる」と進言しますが、宗茂

「追わねば逆に味方の小勢を見抜かれよう。敵の足並みは乱れているので、返し合わせる気力はあるまい」

と答え、二十町ほど追いかけ停止しました。そのとき何人か捕虜がいたのですが、「命を取るのは不憫ゆえ、解き放て」と命じます。家臣たちは「敵に小勢を知らせことになりましょう」と止めますが、宗茂は笑って、

「敵も今朝は知らなかったが、もう知っているわ。任せておけ」

と言い、兵を五つに分けて埋伏させます。
宗茂達の小勢を知った明軍は、今朝の汚名を晴らそうと、息巻いて反撃にでますが、待伏せた五つの隊が強襲して、また散々に破られ逃げていきました。
このように敵の心理を的確に読み、次々と妙策を繰り出す宗茂の采配は、正に「戦術」の天才です。戦後一緒に戦った加藤清正が「日本軍第一の勇将」と絶賛し、小早川隆景をして「立花左近将監の兵三千人は、一万人にも勝り申そう」と言わしめました。


 名将・立花宗茂ですが、その才能の開花には、実父・高橋鎮種(紹運)の遺伝子と義父・立花道雪の教育が大きく影響しています。二人の父親は豊後の戦国大名大友宗麟の家臣で、ともに猛将の誉れ高い武将でした。
 一体、主人の大友宗麟はといえばその人物評価が様々で、賢君か暗君かを判断するのは微妙な人です。キリシタン大名として有名なので、ローマの記録ではキリスト教を普及した聖人と残っていますが、日本の記録では大抵良い物がありません。宗麟は豊臣秀吉に会いに大阪へ上ったときに、豪奢な大阪城と金の茶室に圧倒され、すっかり秀吉を信奉してしまうような、単純なところがありますのでキリスト教入信を含め、相当に感化されやすいタイプだったのではないでしょうか。
大友家は、宗麟の後を継いだ大友義統※の代で潰れてしまうのですが、高橋紹運立花道雪が健在の時は衰えていないので、二人の力が大友家の支えとして大きかったことは間違いないでしょう。


 さて、宗茂を良く知るには、やはりこの二人の父親の話をしなければなりませんので、次回以降はこの二人のことを逸話を交えてご紹介します。
あと、宗茂ただ一つの弱点、妻・ぎん千代の話も欠かすことは出来ません。



※義統は慶長の役で敗走し、秀吉から「言おうようなき臆病者め」と罵倒されて、家を取り潰されています。


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