直江山城守兼続


直江兼続所用「金小札浅葱糸威二枚胴具足」



「陪臣にして、直江山城、小早川左衛門、堀監物杯は天下の仕置をするとも、仕兼間敷(しかねまじき)ものなりと、称誉せられけり」(名将言行録)

 直江山城守兼続を称して、豊臣秀吉が語った言葉で、天下の政治を任せられる人物だという意味です。
歴史小説ファンなら、皆さんご存知の直江兼続ですが、あまり興味の無い人は馴染みがないかもしれません。ただ来年のNHK大河ドラマ天地人」の主人公ですから、一躍有名になることは間違いないでしょう。
 永禄三年(1560年)樋口惣右衛門尉兼豊の長男として生まれ、上杉景勝の母仙桃院の目に留まり、景勝の近習に取り立てられました。一説には上杉謙信の小姓のとき、衆道をもって寵愛され取立てられたと、江戸時代の講談などにありますが、史料が無く信憑性の低い話です。「長高く容儀骨柄並びなく」と常山紀談にあるように、相当な男前だったので、こんな創作が生まれたのでしょう。
 天正六年(1578年)上杉家の家督争い「御館の乱」で景勝側につき、その功で二年後に景勝の奏者番に抜擢されます。さらに翌年天正九年(1581年)に直江大和守景綱の娘お船の方の婿になり、直江家を継いで越後与板城主となると、その後の数々の戦で武功を残し、上杉家中の実力者になっていきます。


 前回予告した、伊達政宗が兼続にやり込まれた話が二つ。

 一つ目ですが、大阪城政宗が珍しい天正大判を諸大名に見せびらかし、各々が手に取って眺めていました。そして、たまたまその場に居合わせた兼続のところにも、大判が回ってきたのですが、兼続は扇子で受け取り、裏を見るときも扇子の上で裏返していました。政宗は陪臣なので、遠慮をしているのだろうと思い「山城、手に取ってとくと見よ」と言ったところ、

「謙信候の時より先陣の下知して采取り候手に、かかる賤しき物取れば汚れ候故、扇に載せて候」(常山紀談)

とやったので、これにはさすがの政宗も一言も返せなかったそうです。

 二つ目。後年江戸城内の廊下で政宗とすれ違ったときに、兼続が挨拶をしなかったので、陪臣の分際で無礼であると咎めたところ、少しも臆せずこう答えたそうです。

「長年戦場にて相見えてまいりましたが、いつも後ろ姿ばかりで、正面からお会いするのは、本日が初めてなので一向に気付かず失礼いたしました」


 以上二つの話ですが、大変有名な逸話なので、ご存知の方も多かったのではないでしょうか。ただ大阪城の件があれば、江戸城が初対面というのは矛盾がありますので、どちらかは創作と思います。何れにせよこのような話が創作されるのも、兼続の性格が、「直江状」をもって、時の最大権力者徳川家康を少しも恐れず、丁重に理詰めに糾弾したような、ちょっと皮肉屋の一面があったからでしょう。


 直江兼続はなかなかの文化人で、西笑承兌直江状の受取った臨済宗の僧)などとも交流があり、よい漢詩も沢山残していますので、その中のひとつを最後にご紹介します。
深く厳しい雪の山中に、凛としてたたずむ松を見た冬の景色を、情緒豊かに吟じています。


「松雪」

孤松吹雪倚岩檐 一夜枝頭白髪添 
睡起朝来開箔見 覇橋詩思在蒼髯

※覇の字には「シ」が付いていますが、変換できなかったのでご了承ください。


天地人〈上〉

天地人〈上〉



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