伊達政宗


  伊達政宗像「仙台市博物館所蔵品」

 
 
 伊達政宗は仙台の人に大変人気があるので、申し訳ないと思うのですが、私はあまり好きになれません。
大雑把にいうと、なんとなく振る舞いに、インチキ臭い感じがするんです。

 天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏征伐の時に小田原に呼び出され、髪を短くかぶろに切り、白麻の陣羽織で出向いたことや、翌年には蒲生氏郷と訴訟騒ぎになり、きついお仕置きを覚悟して、京へ向かう行列に金銀で飾った磔柱を引いていったことなど、度胸があるといえばそうなのかもしれませんが、秀吉が好みそうなパフォーマンスで、罪をかわそうとした策略がいかにも狡賢く、胡散臭く感じます。
 また時代が違うので道徳観、倫理観が違う事も、やむにやまれぬ事情があった事も十分理解してますが、それでも親を殺し、兄弟を殺したことは、あまり好きになれない理由のひとつです。もっとも、私の大好きな蒲生氏郷とは生涯のライバルで、相当苦しめられたことがあったので、それが原因で好きになれないのかもしれませんが。


 ここで一つ、「振分髪正宗」の逸話を紹介します。この話は諸説あり、織田信長由来の伝承も有名ですが、こちらは伊達政宗の方で。

 江戸初期に江戸城内で伊達政宗がある大名※に
「お腰の差料は、さだめし正宗でござろう」
と問われたところ
「いかにも相州正宗でござる」
と答えますが、実はこれが真っ赤な嘘でした。しかしこう答えてしまったので、正宗の脇差を差さねばならないと帰邸後、政宗は刀奉行に家中の脇差を調べさせますが、伊達家に正宗の脇差はありません。しかたがなく在銘の名器でしたが、正宗の刀を擦り上げて脇差にし、これを政宗は「振分髪」と名付け、いつも差して登城していたそうです。
「振分髪」とは伊勢物語にある歌で

「くらべこし振分髪も肩すぎぬ、君ならずしてたれかあぐべき」

に由来しています。私はもう年頃で、女にならなくてはいけないのですが、あなた以外に髪を上げてくれる人はいません、といった意味で、古い時代には女にしてあげた男が、髪を上げる習慣があったので、このように詠んだ恋歌です。政宗は文学のたしなみが豊かな人なので、このように命名したのでしょうが、政宗の意味するところは後半の「君ならずしてたれかあぐべき」のところで、在銘の正宗を擦り上げて脇差にするなど、こんな剛毅なことは、おれしか出来ないだろうといった自負の気持ちからです。


 ところがとんだオチがありました。
ずっと後の世、昭和になってから伊達家から出た「振分髪」を鑑定したところ、同時代の新刀であることが分かり、途中ですり替わったのではないかと、念のため一緒に保管されていた切り落とした茎(なかご)も調べたのですが、やはり真っ赤な偽物でした。

さて政宗は知らなかったのか、それとも...。


 次回はまたまた、仙台の人に申し訳ないのですが、この政宗が来年の大河ドラマ天地人」の主人公:直江山城守兼続に、こっぴどくやり込められる話があり、これがまた傑作なので紹介します。おたのしみに。


※「ある大名」とは加藤左馬助嘉明だったとの説もありますが、出典をひとつしか見ていないので定かではありません。



歴史関連のブログは、こちらをクリック→歴史ブログ人気ランキングへ