立花宗茂 その弐


立花宗茂」  ゲームソフト「信長の野望」より


 「立花宗茂」のことを書こうと始めたのですが、道雪と紹運の事に時間が掛かりすぎて、まるで「パパ」に主役を取られた、「バカボン」のようになってしまいました。まあ、くだらない冗談はさておき、本日から主役「立花宗茂」の話に戻ります。
 

 岩屋城を陥れた島津軍・反大友連合軍(以下は島津軍と書きます)は、紹運の次男・高橋統増が籠もる宝満山城に殺到します。
この城は事情がちょっと複雑で、本来筑紫氏の持城でしたが、当主筑紫広門が島津氏に捕らえられていたので、広門の娘婿である、統増を城主と仰いでいました。高橋家からも相当な人数の武士が行ってはいますが、筑紫氏の家来は主人が島津の人質のようになっていますので、どうしても気が臆しています。劣勢の籠城戦ですから、裏切り者が出るかもしれないと、双方とも疑心暗鬼にもなりますから、

「所詮、はかばかしい籠城戦はできない」

となり、和睦の申入れを受け入れ開城しました。
紹運の壮絶な最期を読んでいただいた方には、「統増は不甲斐ない者」と思われるかも知れませんが、統増は当時まだ十五で、和睦の条件が城内の兵の命を助け、統増と母・宗雲も立花城に送り届けるという寛大なものだったので、致し方ないと思います。
しかし、島津軍の約束は真っ赤な嘘で、統増と母・宗雲は捕らえられ人質になってしまいました。一体ついこの前まで、紹雲の「義心」に感動していた島津軍でしたが、舌の根も乾かぬうちのこの振舞いは、あまりに非道い不信義と言わざるを得ません。


 宝満山城を手に入れた島津軍は、この城と岩屋城を秋月種実に任せ、いよいよ宗茂が守る立花城に進軍しますが、直ぐに攻撃とはなりませんでした。この頃中央では、関白豊臣秀吉徳川家康を丸め込んで和睦が成立し、いよいよ九州平定に乗り出してくるとの情報が入っていたからです。また岩屋城の攻城戦では思わぬ損害を受けたうえ、真夏の暑い盛りの戦ですから、島津軍の士気も振るいません。こうなってみると、岩屋城で二週間足らずでしたが、島津軍を釘付けにして、紹運が命を懸けて戦ったことが報われてきました。

 島津軍も宗茂の弟と実母の人質をたてに、降伏開城を催促しますが、宗茂は上手に交渉して時間稼ぎます。そしていよいよ関白軍の先鋒として、毛利三家(毛利家、吉川家、小早川家)が九州に上陸する情報が入ると、もうすでに腰の引けている島津軍は、旗色の悪さも感じて撤退を始めました。宗茂は好機到来とばかりに兵を繰り出し、撤退する島津軍を追撃して多数の敵を討ち取り、行きがけの駄賃とばかりに、島津方星野鎮胤の居城である高鳥居城も陥れました。この事は直ぐに大坂に注進されて、秀吉は感状をおくり激賞して、

「これ以上の無理な戦は不要である。わしが出馬して九州の逆徒は残らず首を刎ねるであろう」

と言い添えたそうです。
 戦さは劣勢で引き気味になってしまうと、もう挽回する事は困難です。それでなくても関白軍はまもなく、ほぼ天下の兵を率いてやって来るわけで、島津軍は穴に逃げ込むように薩摩に引き上げていきました。

 天正十五年(1587年)三月、ついに関白豊臣秀吉豊前小倉に上陸し蒲生氏郷らの活躍で、最後まで抵抗を続けていた、島津方の巌石城を陥れると、もう目立った反攻もなく物見遊山で九州を平定していきました。間もなく島津家も降伏しますが、こうなっては人質にしていた宗茂の弟・統増と母・宗雲は利用価値もなくなり、逆に秀吉のお気に入りとなった、宗茂の機嫌を損ねまいと引き渡しました。

 同年六月に、秀吉は九州平定の功で宗茂の大友家からの独立を認め、筑後国(山門・三潴・下妻の三郡)の十三万二千石の領地を与えました。宗茂は柳川に城を築き、領内経営にはげみながら、一方では肥後佐々領で起こった一揆の鎮圧にも兵をだし、日に十三度も戦闘をして、一揆側の砦を抜くこと七つ、敵を六百余り討ち取る超人的な働きをします。
兎に角、この宗茂という人は、生涯戦さで一度たりとも遅れをとったことが無い武将なので、誉め言葉を並べていてもきりがないので省略しますが、その後の文禄・慶長の役での大活躍は以前書いた通りです。

 
 慶長五年(1600年)「関ヶ原の役」では、多くの武将の運命が急転しますが、宗茂も例外ではありません。西軍に属していた立花家は役後に改易となり、宗茂と残った主従は浪人となるほど落ちぶれてしまいました。
次回はこの経緯と、浪人時代の逸話、その後の奇跡の復活を一挙に書いて「宗茂伝」の締め括りにしたいと思います。
そうそう、妻・ぎん千代のことも書かなくてはいけませんので、大忙しです。




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